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「鎌倉殿の13人」畠山重忠を始末した時政・りく夫婦。しかし…第36回「武士の鑑」予習

「鎌倉殿の13人」畠山重忠を始末した時政・りく夫婦。しかし…第36回「武士の鑑」予習

平賀朝雅の最期

同二十六日に朝政(朝雅)をば京都にて討れけり。朝政此事争か知さるべきなれ共、女の姓の計に付けるにや又老耄の故にてやありけん。不思議也れ事共也に、二位殿の御計にて義時を時政に替へて将軍の執権とし相模守とぞ申ける。

※『保暦間記』重忠被誅より

【意訳】7月26日、平賀朝雅が京都で討たれた。事前に(討手が向けられることを)知らされるべきではあったが、牧の方はそこまで気が回らず、時政はすっかり老いていたため抜かってしまったのであった。果たして政子の計らいによって義時は第2代執権に就任、相模守の官職を授かったのである。

……時政夫婦に担がれた朝雅も粛清し、義時を第2代執権につけて(ひとまず)一件落着。政子が尼将軍ぶりを発揮して、鎌倉を取り仕切っている様子がわかります。

ここまでの流れについて、鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』と、『保暦間記』を比較してみましょう。

【吾妻鏡】
6月22日 重保・重忠がそれぞれ討たれる
6月23日 稲毛重成・榛谷重朝が粛清される
7月1日 合戦以後、初めて御所で酒宴
7月8日 論功行賞。政子の差配で重忠らの遺領を御家人らに配分
7月20日 女官らにも遺領を配分
閏7月19日 牧の方の陰謀発覚、義時らが実朝を救出。時政が出家
閏7月20日 時政が伊豆へ下向。義時ら評議により朝雅追討の使者を京都へ
閏7月25日 鎌倉からの使者が京都へ到着
閏7月26日 朝雅が京都で討たれる

【保暦間記】
6月22日 『吾妻鏡』と同じ
6月23日 牧の方が稲毛重成・榛谷重朝と実朝暗殺計画を立てる
7月20日 義時が実朝を危機一髪で救出
※恐らく同日、時政夫婦が伊豆へ流罪(出家の言及はなし)。その後消息不明に
7月26日 朝雅が京都で討たれる

日付が重なるところもありますが、閏月の分だけ丸一ヶ月ずれているようです。恐らく『保暦間記』の筆者(南北朝時代の人物と推定)は、この年が閏年であると認識していなかったものと思われます(何しろ書いている時点から100年以上も昔のことですし)。

また『吾妻鏡』ではトカゲの尻尾切りで粛清された稲毛重成と榛谷重朝について『保暦間記』では言及がないものの、人知れず始末されたのでしょう。

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