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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その3】

絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その3】

斎藤利三の子・ふく(春日局)を厚く庇護する

『海北家由緒記』によると明智光秀が滅びた時、友松は斎藤利三の妻子を匿い、厚く庇護したという。

その子が、後に江戸幕府3代将軍徳川家光の乳母となり、老中を凌ぐといわれた権勢を確立した春日局(かすがのつぼね)こと、斎藤ふくだった。

春日局は友松没後に、友松の妻妙貞と子の友雪(ゆうせつ)を江戸に招いて歓待するとともに、将軍家光のもとに召し出し、江戸に屋敷を与えた。

友雪は絵師としての活動の傍ら、小谷忠左衛門として京都で絵屋を経営し生計を立てていたが、この時から友雪を名乗り、本格的な画壇デビューを果たす。その後は、幕府はもとより、後水尾上皇などの宮廷御用を勤め、法橋に任ぜられている。

絵師として武士として己を貫いた海北友松

晩年の海北友松は、大名家や宮中と親交を深めつつ、悠々自適な生活を送り、絵を描き続けた。

その中で、多くの文化人や教養人と交わり、そこで得たものを作品に投影していく。そして、『浜松図屏風』『網干図屏風』『山水図屏風』などの名作を描き、従来の水墨画の常識を覆す、立体感のある山水画の画風を確立した。

1615(慶長20)年6月2日、友松は83歳でその生涯を閉じた。武家としての海北家の再興を夢見たが、ついにその夢は果たせなかった。

友松ほどの人脈があれば、様々な大名家からの誘いもあっただろう。もし、仕官していれば、その夢は叶ったはずだ。

しかし、友松はそれを潔しとはせず、決して権力者に仕えないという矜持を持ち続け、己が信ずる道を貫いた。

3ページ目 建仁寺の雲竜図の意図

 

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