絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その3】
狩野永徳・長谷川等伯と並び称される江戸初期の絵師・海北友松の生涯を紹介するシリーズの3回目。
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絵師でありながら、槍をふるって斎藤利三の遺骸を奪還した海北友松(かいほうゆうしょう)とは【その2】
海北友松(かいほうゆうしょう)は、近江浅井家で重臣を勤めた武家海北家の出自だったが主家とともに滅亡。友松は、画家として活動する傍ら生涯にわたり、その再興を目指し、様々な人々と交流を行った。
【その3】では、親友・斎藤内蔵助利三の遺骸を奪還した友松と、その後についてお話ししよう。
晒された斎藤利三の遺骸を奪回する
1582(天正10)年6月2日、友松の親友・斎藤利三の身に一大転機が訪れた。主君明智光秀が本能寺に織田信長を急襲し、滅ぼした本能寺の変が勃発したのだ。
信長を亡き者にした光秀は京都を抑えるなど早急に権力構築を試みた。しかし、豊臣秀吉の中国大返しや盟友であった細川幽斎(ほそかわゆうさい)・筒井順慶(つついじゅんけい)らの大名を味方にできず、同年6月12日の山崎の戦いで秀吉に敗れる。
光秀は居城の近江坂本に逃れる途中で落ち武者狩りの手に落ち、利三も捕らえられ斬首された。二人の遺骸は、首と身体を繋がれ、粟田口の刑場で磔にされ晒されたのだ。
信長を討ってから僅かの間に、光秀も利三も実にあっけなくこの世を去った。友松がこれをどう感じたかは定かではない。しかし、友松を突き動かしたのは「名こそ、惜しけれ」という、辱めをよしとしない武門の血であった。
真如堂東陽坊の仏間に座する友松は、住持の東陽坊長盛に毅然と言い放つ。
長盛殿、今夜、某は粟田口に参ります。
長盛は友松が携えてきた長槍を見てその真意を悟った。
ならば、拙僧も共に参ろう。弔いに坊主は欠かせまい。
その深夜、闇に紛れて友松と長盛は粟田口の刑場に侵入した。
漆黒の闇を割くように、長盛が声高々に経を唱える。その声に驚いた番兵たちが槍を構えた。
拙僧は、旅の僧にござる。弔いのために参上した。
それと同時に友松が飛び出し、番兵たちに槍を突き付ける。
すわっ、明智の残党ぞ!出会え、出会え!
うろたえる番兵たちを蹴散らすように友松の長槍が唸りを上げた。その隙に長盛が斎藤利三の遺骸を背負い、真如堂へと走った。
友松は長槍を振るいつつ、明智光秀の遺骸の奪還を試みる。しかし、敵が友松一人と判ると、続々と応援の兵たちが刑場に駆けつけてきた。
最早これまで、明智様、お許しを!
友松は光秀の遺骸に一礼すると、忽然と闇の中に姿を没した。
真如堂に戻った友松と長盛は利三の遺骸を手厚く葬った。今も真如堂には、東陽坊長盛・海北友松・斎藤利三の墓が並んでいる。