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我ら「賤ヶ岳の七本槍」!そのメンバーの数奇かつ波乱に満ちた生涯

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教養人もいた「七本槍」

⑤脇坂安治
脇坂安治は七本槍の中でも最年長。和歌を嗜む教養人でもありました。

明智光秀の与力として実績がありましたが、自分から頼み込んで秀吉の家臣になりました。その後の戦でも功績を重ねています。

関ヶ原の戦いでは西軍に付きましたが、戦中に寝返ったので処分されることはありませんでした。

⑥糟谷武則
糟谷武則はさまざまな姓を名乗っていた人で、時に「加須屋真雄」という名の知名度の方が高いかも知れません。

賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政の家来を討ち取るなどの活躍をし、他の6人と共に賞詞が渡されました。しかし、関ヶ原の戦いでは「七本槍」中唯一西軍についたため、戦後に改易されました。

先述した武将と比べて知名度が低く、晩年ははっきりしません。

⑦片桐且元
片桐且元は近江生まれ。父は浅井長政の家臣で、若い時から秀吉に仕えていました。生涯を通して豊臣家のために尽力し、七本槍の一人としても活躍しましたが、内通者の疑いをかけられて大阪城から退去せざるを得なくなりました。

大阪冬の陣では徳川方につき、夏の陣では家康に対して、淀君や秀頼の命を助けてほしいと嘆願しています。

その後、彼は病で亡くなったとされていますが、豊臣家の滅亡に殉じたという説もあります。

いかがでしたでしょうか。「賤ヶ岳の七本槍」の顔ぶれをざっとご紹介しましたが、戦国時代の武将らしく、それぞれ波乱に富んだ人生を送ったことが、短い説明でもお判りいただけたと思います。

日本では「七」が縁起のいい数と言われていますが、その起源が彼らだという説もあるほどです。

 

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