我ら「賤ヶ岳の七本槍」!そのメンバーの数奇かつ波乱に満ちた生涯:2ページ目
加藤清正を筆頭に…
①加藤清正
言わずと知れた名将ですね。幼い頃から秀吉に仕え、各地の戦に参戦していくうちに戦いぶりを認められ、肥後北半国の大名となりました。
後の関ヶ原の戦いでは、秀吉の側近だった石田三成率いる西郡ではなく、徳川家康率いり東軍に加勢しました。
肥後国と豊後国の一部を与えられて熊本藩主となり、現在も地元では「清正公さん」と呼ばれ親しまれています。
②福島正則
武士出身ではなく「桶屋」の出身という福島正則。母親が秀吉の叔母だった縁で秀吉に仕え、盟友の清正とも親戚関係でした。秀吉からの信頼も厚かったといいます。
関ヶ原の戦いでは、清正と一緒に東軍に加勢。この時の功績が家康から認められました。一説によると、福島正則は七本槍の中でも最強だったそうです。
③加藤嘉明
三河の国で松平家康の家臣として仕えていた加藤教明を父とし、七本槍の中で最も長命だった加藤嘉明。
6歳の時に父を亡くし、その後は馬の売買をしていた人に養われていたとされています。そして信長の家臣・加藤景泰と出会ったのがきっかけで秀吉に推薦されました。
最初は、羽柴秀勝(信長の四男で秀吉の養子)の小姓だった嘉明ですが、ある時、秀勝に黙って戦に参加。このことが秀勝の養母にばれて怒られたのですが、秀吉は嘉明の意欲を高く評価しました。
④平野長泰
平野長泰は、ただ一人、七本槍の中で大名になれなかった人物です。
彼も若い時から秀吉に仕えており、賤ヶ岳の戦いで一躍その名を知らしめました。その後も秀吉に従軍し続け、さまざまな場面で功績をあげており評価も高かったのですが、結局大名にはなれずじまいでした。