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地獄絵図の虐殺!日本史上稀に見る鬼畜戦略、豊臣秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは?

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「飢え殺し」の結末

秀吉の、徹底的な兵糧攻めはまだ終わりません。彼は鳥取城周辺の村々を襲い、2千人以上の領民を鳥取城内に逃げ込ませ、城内の食糧消費を加速させる作戦に出ました。

これが功を奏し、籠城戦が始まってからわずか1か月で兵糧が尽きてしまいました。その後は、3日か5日に一度、雑兵が城柵まで出てきて木や草の葉を取り、それを食糧として飢えを凌ぐようになります。

しかし、数週間後には城内の家畜や植物も枯渇し、4か月が経った頃には餓死者が続出。詳細はご想像にお任せしますが、この頃の城内は地獄絵図だったようです。

このような状況に耐えられなくなった経家は、秀吉への降伏を決意。経家自身と主戦派の旧山名氏重臣たちの切腹を条件に、兵士や民衆の助命を嘆願しました。

秀吉は経家の命は助けたかったようで、旧山名氏重臣の切腹を降伏条件として提示します。しかし経家の意思は固く、結果的には秀吉側が折れて経家と旧山名氏重臣らの自決とともに鳥取城は開城されました。

こうして戦いは終わりましたが、悲劇はまだ終わっていませんでした。開城後、秀吉は空腹の兵士らに食糧を振る舞いますが、空腹のあまり勢いにまかせて食べた人々が次々と死亡し、生存者の過半数が命を落としたと言われています。

餓死寸前の人に、いきなり普通の食料を与えてはいけないのです。

ちゃんと振る舞う分の食糧を準備していたことから見ても、おそらく秀吉は「飢え殺し」そのものを目的にしていたわけではないのでしょう。城さえ落とせれば、あえて人々を飢えさせる必要はなかったはずです。

しかし経家たちが意地を見せたことで、かえって被害は拡大したのでした。彼が決死の思いで助けた人たちも、その多くが命を落とし、こうして「鳥取の飢え殺し」は、日本史上稀に見る鬼畜戦略として名を残すことになったのです。

 

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