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地獄絵図の虐殺!日本史上稀に見る鬼畜戦略、豊臣秀吉による「鳥取の飢え殺し」とは?

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籠城戦VS兵糧攻め!

この地域は11月になれば大雪に見舞われるため、10月まで城を守り抜いて持ちこたえれば、敵は戦いを中断して引き上げざるを得ません。よって、籠城は有効な選択に思われました。

ところが、すでに城内は兵糧不足に陥りかけており、半年以上の籠城に耐えられるだけの兵糧がありませんでした。前年の凶作に加え、秀吉が侵攻した際に兵糧を徴収しさらには刈田もしていたからです。

また、秀吉は若狭の商人達に指示を出し、因幡国内の米を通常価格より高値で購入させ、鳥取城下の米を買い占めさせていました。このため、城兵達は米を売って弾薬や武器を補充するありさまでした。

秀吉は以前から鳥取城を兵糧攻めで攻略することを考えており、早く城内の食糧を枯渇させるためにあらかじめ策を講じていたのです。

さらに、秀吉は鳥取城の西北に丸山・雁金の2つの付城を築きます。三木城の合戦でも効果を発揮した、付城による包囲作戦をここでも採用したのです。

そして、本丸の東側に本陣を置き、鳥取城を囲むように70ヵ所以上の陣城を配置。蟻の這い出る隙間もないほどの包囲網を敷きます。

さらに、攻略した周辺の支城にも兵を入れて陸路や海路を完全封鎖し、外部との連絡手段と補給経路を完全に遮断しました。

経家も早い段階でこの危機に気づき、外部に食糧援助を要請しましたが、陸路・海路ともに阻まれており、兵糧を届ける手段はもはやありませんでした。

籠城戦+持久戦VS包囲戦+兵糧攻め、という構図です。

3ページ目 「飢え殺し」の結末

 

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