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【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その1】

【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その1】:3ページ目

落ち武者同様の頼朝を助けた上総介

上総介広常の動員兵力は13,000人だった

1180(治承4)年9月19日、再起を図るため隅田川辺に布陣する頼朝のもとに、上総介広常が着陣します。この時に上総介が率いていた兵力は『吾妻鑑』によると2万騎・『延慶本平家物語』では1万騎・『源平闘諍録』では1千騎とあります。

では、本当のところ上総介はどれくらいの兵力を持っていたのでしょうか。それを考えるには、当時の上総国の収入が分からなければなりません。

兵を養うのには財力必要となります。当時の財力は領土から生産される米や産物の量(石高・貫高)です。石高・貫高が大きければ大きいほど多くの兵を持つことができるのです。

上総介広常が本拠としていた上総国の石高は、安土桃山時代の1598(慶長3)年には、おおよそ38万石とされます。広常が上総国を支配したのは、これより400年前のことです。

鎌倉時代から室町時代に二毛作や稲の品種改良が行われ、農業が発展したことを鑑みて、米の生産量を大体7割位と想定しましょう。そうなると、平安後期から鎌倉初期の上総国の石高はおおよそ26万石と見積もれます。

一般に1万石で500人の兵を養えるとされますので、上総国をほぼ一国支配していた広常の有していた兵力は約13,000人ということになります。

しかし、広常は佐竹氏などと争っていましたので、傘下の兵全員を率いてくるわけにはいかなかったでしょう。仮に、国元に半数の兵を残したとしても7,000人近くの兵力となります。

上総介は1万騎には満たないものの、戦慣れした精兵の大軍を率いて頼朝と合流したのです。

頼朝の命運を握る存在だった上総介広常

一方、頼朝本軍はどれだけの兵力を有していたのでしょうか。石橋山合戦当時の頼朝軍は300人。援軍として間に合わなかった三浦勢400人を入れても総勢700人ほどでした。頼朝の敵で、東国における平家の代表だった大庭景親の動員兵力は3,000人とされています。

そう考えると、上総介の有する全兵力の13.000人が、いかに飛びぬけていたものであったか理解できるでしょう。

そして広常は義朝との深い絆から、上総の兵は自兵というよりも頼朝に供奉する兵であるという意識をもっていたのではないでしょうか。

上総介の兵を吸収することで、頼朝は石橋山敗戦の再起とさらなる飛躍に向け大きな一歩を踏み出しました。しかし、一方で頼朝の命運は上総介が握っていたことは誰も目から見ても明らかであったのです。

[その1]はここまで。[その2]では「上総介と頼朝の考えの違い」から起こった、頼朝による上総介広常誅殺の真相をご紹介しましょう。

「その2」はこちら

 

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