【真説 鎌倉殿の13人】上総介広常をもっと知りたい!本名・兵力・誅殺の理由など真相に迫る【その1】:2ページ目
上総介広常は最初から頼朝の味方だった
上総介広常の正確な生誕年はわかっていません。ただ家督を継いでいない青年期は、源頼朝の父義朝に従っていました。義朝は京都にいたものの、父の為義と不仲により東国に下向します。
義朝は為義の所領である安房国に入りますが、その後、上総国に本拠を移し上総氏・千葉氏などの後援を受け「上総御曹司」と呼ばれました。
平氏の上総氏・千葉氏が源氏の義朝を擁立したのは、鎌倉に本拠をおいた義朝の先祖・源頼義・義家父子との強い結びつきからであったのは間違いないでしょう。
若き日の上総介広常は、関東武士団の統率を目指す源義朝とともに戦い、義朝が上洛するとそれに従います。保元・平治の乱では、義朝の長男義平のもとで活躍し「義平十七騎」の一人に数えられています。
しかし、義朝は平治の乱で平清盛に敗れ死亡、頼朝は伊豆に流されてしまいます。広常は戦線を離脱、執拗な平氏の探索を逃れて上総に戻りました。そして父上総常澄(かずさつねずみ)が亡くなるとその家督を継いだのです。
このような経緯から、上総介広常は頼朝が伊豆で挙兵した時点から頼朝側であったと考えるのが妥当なのです。
その証拠として、上総介がいたからこそ石橋山で負けた頼朝は安房に上陸し、安心して上総を経由して下総に入れたのです。そして広常もその間に清盛側の上総国司など平氏側勢力を一掃し、頼朝軍に加わったのです。