島原の乱では幕府の総大将!江戸初期の政治家・松平信綱の活躍と実績をたどる【後編】:2ページ目
インフラ整備や治安維持でも活躍
当初、信綱は戸田氏鉄と共に、反乱鎮圧後の仕置・戦後処理のために派遣されていました。しかし、幕府軍の総大将だった板倉重昌が戦死したため、代わって総大将に任命されました。信綱42歳の時のことです。
総大将となった信綱は、オランダ船のデ・ライブ号に援護射撃を要請。これとあわせて攻撃を仕掛けますが、反乱勢の抵抗も激しく、膠着状態に陥りました。
そこで立花宗茂や水野勝成など、戦陣経験がある老将と相談して兵糧攻めに持ち込みます。
その結果、反乱勢は兵糧が尽きて疲弊。改めて幕府軍は総攻撃を実施し、鎮圧に成功しました。
島原の乱を平定した後、信綱はキリシタンの取締りを強化します。ポルトガル人を追放し、オランダ人を長崎の出島に隔離するなどして、いわゆる「鎖国」体制を完成させました。
これらの功績が認められ、44歳となる寛永16年(1639)に6万石に加増され、武蔵国川越藩に移封(異動・転任)となります。
川越藩に移った信綱は、城下町を整備して「小江戸」と呼ばれるまでに発展させました。また、川越と江戸を結ぶ新河岸川や玉川上水の整備などを進めていきました。
間もなく、徳川家では将軍が家綱に変わりますが、信綱はその後も老中首座として幕政を統括し、火災で焼失していた江戸城本丸の再建や、由比正雪が幕府転覆を図った慶安の変、老中暗殺計画が練られた承応の変を鎮圧するなどしています。
八面六臂と言ってもいいほどの凄い活躍ぶりですね。今で言えば、県知事・国土交通大臣・防衛大臣や警察長官を兼任している感じでしょうか。