島原の乱では幕府の総大将!江戸初期の政治家・松平信綱の活躍と実績をたどる【後編】
【前編】では、天才政治家・松平信綱が大名になるまでの足跡を辿りました。
わずか6歳にして天才!江戸初期の政治家・松平信綱の活躍と実績をたどる【前編】
【後編】では、その類い稀な実績の数々を追っていきます。
「あれは人間ではない」
38歳となった寛永10年(1633年)には阿部忠秋や堀田正盛らと共に老中に任命され、翌年には「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定、政務に辣腕を振るうようになります。
将軍家の信頼も篤く、春日局、柳生但馬守宗矩と、そうそうたる顔ぶれと並んで、三代将軍・家光を支えます。
この頃になると、信綱の知恵者ぶりは幕閣内でも評判となり、例えば家光から信頼を置かれていた酒井忠勝は「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評しています。
ちなみにこの酒井忠勝は、現在の山形県内にあった庄内藩(藤沢周平の作品に出てくる海坂藩のモデル)を統治して暴虐を行った人物です。彼が亡くなった時、信綱は「死んでよかった」ともとれる発言をしています。
また阿部忠秋も「何事にもよらず信綱が言うことは速く、自分が2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」と述べています。
さて、信綱が活躍したのは江戸時代になってからで、もはや戦国時代とは異なり「戦乱」と呼ぶべきものは存在しない世の中でした。しかし信綱は「戦」と無縁だったわけではなく、寛永14年(1637年)に発生した島原の乱では幕府軍の総大将に任命されました。
島原の乱とは皆さんご存じの通り、島原藩を治めていた松倉重信・重政親子による悪政に耐えかねて、領民が起こした大規模な反乱です。
集団処刑、熱湯漬け拷問…そして島原の乱、勃発。日本におけるキリシタン弾圧の歴史
幕府軍は、これに思わぬ大苦戦を強いられました。