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まるで白亜のピラミッドのように復元!斉明天皇の真陵・牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)ってどんな古墳?【前編】

まるで白亜のピラミッドのように復元!斉明天皇の真陵・牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)ってどんな古墳?【前編】:4ページ目

三代の貴婦人が寄り添うように眠る聖域

この地には、斉明天皇・間人皇女・大田皇女と、母・娘・孫の三代の貴婦人が寄り添うように眠っていることになります。牽牛子塚古墳から越塚御門古墳を眺めると、まるで斉明天皇が孫娘の大田皇女を優しく抱いているかのようです。

間人皇女は、孝徳帝の皇后でありながら政治的な理由で、母(斉明帝)、兄(中大兄)とともに夫を難波宮に置き去りにし飛鳥に戻りました。孝徳帝は、崩御の時を迎えるまで、去って行った彼女を想い続けたともいわれています。おそらくは、間人も同じような思いであったのではないでしょうか。

大田皇女は、夫・大海女皇子との間に大伯皇女(おおくのひめみこ)・大津皇子を設けますが、その成長を見ることなく20歳前半でこの世を去りました。

激動の飛鳥時代をリードした斉明女帝にとって、決して幸多い人生を歩んだとはいえない娘(間人皇女)と孫(大田皇女)は、常に心の片隅から離れない存在であったのでしょう。

自分の死後、二人をその懐に抱き永遠の眠りに就くことを望んでいたとしても不思議ではありません。その想いを天智天皇が叶えたのが牽牛子塚古墳・越塚御門古墳であったとも考えられるのです。

【前編】はここまで。【後編】では、「牽牛子塚古墳等整備事業」として、整備された現在の牽牛子塚古墳と越塚御門古墳についてお話ししましょう。

【後編】はこちらから

 

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