まるで白亜のピラミッドのように復元!斉明天皇の真陵・牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)ってどんな古墳?【前編】:2ページ目
牽牛子塚古墳について
牽牛子塚古墳ってどんな古墳
古墳と聞くと、多くの人が仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)のような巨大な前方後円墳を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかしながら、7世紀中頃からの終末期古墳時代になると天皇の墳墓といえどもその規模は縮小されてきます。
ただ、その墳形が古代中国思想で天下の支配者のシンボルとされる八角形になったり、石室がより精巧な切り石を用いた造りになったり、棺の素材に漆を塗り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が用いられたりする特徴が現れてきます。
牽牛子塚古墳の外観は、最大径約33m、高さ約4mという規模の八角形墳丘です。その内部には、約80トンの巨大な凝灰岩をくり抜いた横口式石槨を備えています。その構造は、中央に仕切り壁を設け、南側に開口する長方形の2つの石室からなるという精巧極まるものでした。
出土品としては、二棺分の夾紵棺片約100個・棺を飾る金銅製金具・七宝製亀形金具・銀線で繋いだ多数のガラス玉など第一級の遺物が発見されました。
八角形の墳丘は、30㎝四方に加工されたレンガ状の凝灰石に覆われていたことが判明。その姿は、八角形の石のピラミッドという形状を呈していたのです。
『日本書紀』に記された斉明天皇陵
斉明天皇は、出征先の筑紫で661年に崩御します。その後、女帝の遺体は飛鳥川原宮に戻り、約6年にわたる殯(もがり)を経て、667年に埋葬されました。
『日本書紀』(天智紀六年の条)によると
「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)と間人皇女(はしひとのひめみこ)とを小市岡上陵(をちのをかのうへのみささぎ)に合(あわ)せ葬(かく)せり。是の日に、皇孫(みまご)大田皇女(おほたのひめみこ)を、陵の前の墓に葬(かく)す」
との記述がみえます。
天豊財重日足姫天皇は、斉明帝のことです。間人皇女は、女帝の娘で中大兄皇子の妹、第35代孝徳天皇の皇后で665年に死去。大田皇女は女帝の孫(父は中大兄皇子)で、大海人皇子妃。後に持統天皇(大田皇女の同母妹)の命で、非業の死を遂げる大津皇子の母にあたります。
『日本書紀』からは斉明天皇の御陵は、女帝と間人皇女の合葬墓であり、隣接する大田皇女の墓を従えた天皇・皇女の女性三代が眠る古墳であるということが読み取れるのです。
現在、宮内庁の定める斉明天皇陵として、奈良県高取郡高取町にある車木ケンノウ古墳(円墳・径30m)が、越智崗上陵として治定されています。しかし、この古墳を斉明女帝の真陵と考える学者・研修者は皆無といっても過言ではありません。しかも、この陵墓は古墳であるかどうかも疑わしいのです。