新選組・沖田総司にはなんと娘もいた?「沖田縁者の墓」にまつわる謎、その2。:2ページ目
その後、沖田は池田屋事件で傷を負い、八木邸や前川邸とともに屯所にあてがわれていた浜崎新三郎宅で治療を受けますが、そのとき手伝いをしていた石井秩(ちつ?)という女性と恋仲になり、なんと慶応二年にはキョウという娘が生まれます。
そして慶応三年に石井秩が病死すると、沖田に恩のある酒井意章・キン夫妻が代わりに光縁寺に埋葬し、秩の連れ子のユキとキョウを養女として引き取ったという。
そしてのちのち意章の養子となった意誠が、ユキを妻にしたとのこと。キョウは奈良県御所町の磯田家に嫁いだといいます。
以上ですが、このお話、俗説で有名な「医者の娘との恋」に近しいものを感じるので、信ぴょう性がなくもないですが、…しかし、この説はここまで詳しく書かれていながらも定説とはなっていません。キョウが嫁に行った磯田家の情報なども、筆者も調べてみましたが何も見つけられませんでした。
沖田総司の姉のキンさんの子孫が判明しているように、もし本当に沖田総司の娘の血が現代につながっているのなら、もっと公になってもいい気がしますね。
また、「往詣記」自体にも誤りがないとは言えません。
実は「大阪 酒井意誠吊」の書き込みは、明治41年に住職となった盛誉さんの手によるもの。光縁寺は安政2年~明治31年まで住職を務めていた良誉の死後、無住になってしまい、その後に盛誉さんが復興したのです。なので、書き写したときに誤りがあったとしてもおかしくはありません。
また「意誠」という名前も、新選組の「誠」の字が使われていることから、なにか出来すぎのような気もします。
結局、「歴史と旅」の話を裏付ける確証が他に見当たりませんでした。沖田総司自体の姿も謎ですし、それに輪をかけて「沖田氏縁者」は新選組最大の謎として、今後も暴かれることはなさそうです。