新選組・沖田総司にはなんと娘もいた?「沖田縁者の墓」にまつわる謎、その2。
11月に紹介した、沖田総司の恋人ではないかといわれている「沖田縁者の墓」は誰か? 今回もその謎を追います。
新選組壬生屯所に近い光縁寺に、「沖田氏縁者」の墓があることを以前紹介しました。
前回の記事はこちら「沖田氏縁者」の墓の女性は誰?新選組・沖田総司の恋人はまさかのあの人…?史跡巡りで見聞した説とは
前回はそれが明里では?という説を展開したのですが、実は光縁寺の過去帳である「往詣記(おうげいき)」には、さらに謎の人物の名前が記されています。
その名は「酒井意誠」(おきのぶ?)。
台帳には正しくは「大阪 酒井意誠吊」(吊は弔うの俗語)と記されています。その名の通り墓参にきた人の名前を縁者の横に記す台帳なので、この酒井氏は大阪からきて、埋められた「沖田氏縁者」を弔いにきたということ。
しかし、弔いに来た日付まではわかりません。ではこの酒井意誠とは誰なのでしょうか。
その前に、今一度簡単に沖田総司の年表をおさらいしましょう。
▼元治元年(1864年)
6月5日 池田屋事件
▼慶応三年(1867年)
4月26日 沖田氏縁者没
10月13日 沖田総司発病
酒井意誠とは?
実はこの人物も謎だらけ!色々な説が入り乱れていますが、要約すると、『歴史と旅』昭和五十五年十一月号「特集 謎と異説の新選組」に以下のように書かれているとのこと。
酒井意誠は安政四年(1857年)生まれ。現・奈良県の櫛羅藩(くじらはん)の山口勝元氏の次男で、明治四年に酒井意章の養子となります(ちなみにこの酒井意誠氏が墓参したとすれば、酒井家の養子になってからなので少なくとも明治四年以降となる)。
沖田との関係は酒井意章に遡ります。酒井意章が禁裏守護として京都に駐留していたときに、キンという女性を巡り刃傷沙汰を起こしたものの、沖田総司のとりなしで処分を免れたといいます。