生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯:2ページ目
文徳天皇の後ろ盾で、順調に出世
かくして「貴族」の仲間入りを果たしたこの頃、良仁は北家一族の藤原浜主女(はまぬしのむすめ)と結婚。承和14年(847年)には嫡男の藤原有実(ありさね)が誕生しました。
ほか生母&生年不明の藤原恒実(つねさね)や藤原義実(よしさね)もいますが、分け隔てなく愛してあげたのでしょうか。
ますます職務に励んだ良仁は嘉祥2年(849年)に従五位上へ敍爵、春宮の次官である春宮亮(とうぐうのすけ)に昇進。
そして嘉祥3年(850年)、道康親王が皇位を継承されると二階級特進で正五位上に叙爵されました。
また皇太后(天皇陛下の母)となった藤原順子(のぶこ/じゅんし。良仁の異母長姉)に仕える中宮亮(ちゅうぐうのすけ)とその護衛を務める右兵衛権佐(うひょうゑごんのすけ)を兼任します。
仁寿4年(854年)には従四位下へ昇進、その時期に蔵人頭(くろうどのかみ)、右近衛中将(うこのゑのちゅうじょう)はじめ右馬頭(うまのかみ)、木工頭(もくのかみ)、大舎人頭(おおどねりのかみ)、左京大夫(さきょうのたいふ)など要職を歴任。
この頃が良仁にとって人生の絶頂でしたが、やがてその前途に暗雲が立ち込めます。