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生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯

生まれよりも生き方が大事…兄からの冷遇に耐えて活躍した平安貴族・藤原良仁の生涯

兄に逆らった報いで左遷

文徳天皇は若い頃より病弱で、早くから皇位継承者選びが問題となっていました。

文徳天皇は第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)を後継者に望んでいましたが、太政大臣の藤原良房(よしふさ。良仁の異母兄)は自分の娘・藤原明子(あきらけいこ/めいし)が産んだ第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう。後の第56台・清和天皇)をゴリ押しします。

何とか陛下のご希望にそえるようにしたい……良仁は惟喬親王を推すべく働きかけますが、良房は異母弟の願いを一蹴。

それならせめて惟喬親王を惟仁親王の皇太子≒次期皇位継承者に……文徳天皇はそう願いましたが、それでは却って愛する惟喬親王の身を危うくしてしまうでしょう。

結局、皇位は惟仁親王が継ぐことと決定。太政大臣の意向に逆らった良仁は天安元年(857年)、越前権守(えちぜんごんのかみ)として左遷されてしまったのでした。

権守とは正式な国司(越前守)に対して仮≒員数外の国司で、現地に行ってもやることはあまりありません。要するに実質的な追放処分と言えます。

(※名誉職として授けられる場合もありますが、ここでは状況的に左遷≒追放処分と解釈)

京から遠く越前(現:福井県)で陛下の身を案ずる中、天安2年(858年)に文徳天皇が崩御。あまりに急だったため、良房らが暗殺したとも噂されました。

もう十分に反省したと思ったのか、藤原家当局は良仁を赦して兵部大輔(ひょうぶのだいゆう。軍事長官)の官職を与え、中央政界に復帰させます。

しかし文徳天皇の葬儀や陵墓造営などは任せられず、生前篤く忠義を尽くしていた良仁には辛い仕打ちだったことでしょう。

エピローグ

その後、良仁は中宮大夫(ちゅうぐうのたいふ)を拝命して国母(天皇陛下の母・皇太后)となった藤原明子に仕えます。

しかし母が亡くなり、それを嘆き悲しむあまり血を吐いて昏倒。それ以来、病床に臥せって貞観2年(860年)に卒去。まだ42歳の若さでした。

人々はこれを「母親に対する孝心ゆえ」と賞賛しましたが、母親としてみればそこまで悲しまず、長生きして欲しかったことでしょう。

ちなみに父・藤原冬嗣は良仁がまだ8歳だった天長3年(826年)に薨去しており、父がもう少し生きていれば、母子の境遇も少しはマシだったかも知れません。

ちなみに父の背中を見て育った藤原有実は精進を重ね、若くして父を越える公卿(上級貴族)に列します(最終的には正三位まで昇進)。

人間は生まれよりも生き方が大事。そして努力によって運をつかめれば誰でも成功できることを、身をもって示したのでした。

※参考文献:

  • 佐藤謙三ら訳『読み下し 日本三代実録 上巻』狄光祥出版、2009年10月
  • 『新編増補 国史大系第58巻 尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、2007年6月
 

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