御家人の心を鷲掴み!鎌倉幕府 初代将軍・源頼朝の神対応エピソード:2ページ目
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小代八郎行平ハ参リタルカ……
また、建久4年(1193年)の3月21日から4月28日にかけて、頼朝公が下野国那須野や信州三原へ巻狩に出た折のこと。
狩場への道中、頼朝公はふと思い出したように「そう言えば今回、行平は来るのか?(小代八郎行平ハ参リタルカ)」と尋ねたところ、侍所所司を務めていた梶原景時(かじわらの かげとき)が答えます。
行平ハ御堂 興仏寺是也 造立、明日供養ニテ候間、彼ノ営アルニ依リテ、遅参仕マツリテ候
※沙弥宗妙小代伊重置文より
【意訳】行平は建立していた菩提寺(興仏寺)が完成して、明日は記念法要の斎主を務めるため遅れるそうです。
一族の菩提寺を建立し、祖先を供養するとは見上げた心がけ……景時の報告を受けた頼朝公は
其儀ナレバ近隣ノ者ノハ皆ナ、行平ガ御堂供養ニ逢ヒテ後チ参ル可キ由
【意訳】そうか。だったら行平の近所連中に『行平の記念法要に参列してからこっちへ来い』と伝えよ。
そう命じて、使者となった梶原景茂(かげもち。景時の三男)に建立祝いとして名馬を届けさせたのでした。
果たして巻狩に合流した行平がお礼を述べると、頼朝公は菩提寺がきちんと運用できるよう所領を与え、重ねて面目を施したということです。
めでたし、めでたし。
終わりに
以上、小代行平を感激させた頼朝公との思い出を紹介してきました。
『吾妻鏡』を見る限り、この両者は特別な関係にあった訳ではなく、あくまで主君とその他大勢に過ぎません。
それでも頼朝公は一人々々を軽く扱うことなく、折に触れてこうした心遣いを見せたことで、御家人たちを魅了したのでしょう。
(記録に残っていないだけで、他の者たちにもこれに類いする扱いをしていたものと推察できます)
何かと冷徹、陰険なイメージを持たれがちな頼朝公ですが、こうした一面も見直されて欲しいところです。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 石井進『鎌倉武士の実像』平凡社、2002年11月
- 熊本県『熊本県史料 中世篇 第1』熊本県、1961年1月
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