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古典ファン必見!『枕草子』『源氏物語』の舞台となった宮殿遺構が新たに発見

古典ファン必見!『枕草子』『源氏物語』の舞台となった宮殿遺構が新たに発見:2ページ目

『枕草子』『源氏物語』の舞台に

登華殿は平安中期、第66代・一条天皇(いちじょうてんのう)の中宮であった藤原定子(ふじわらの ていし。道長の姪)が暮らし、彼女に仕えていた清少納言(せい しょうなごん)が、随筆『枕草子(まくらのそうし)』に父・藤原道隆(みちたか)とのエピソードを綴りました。

また、弘徽殿は『源氏物語』における最大?の敵役である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)が住んでいたことで知られ、彼女の妹である朧月夜に光源氏が夜這いをかけて、一大スキャンダルに発展した舞台でもあります。

(※こちらはフィクションで、登場人物も創作ですが、弘徽殿自体は実在し、そこに女御が住んでいたこともありました)

さて、京都市埋蔵文化財研究所の調査によって、登華殿の遺構からは延暦13年(794年)平安京遷都の当初から建てられたと推定される掘立柱穴が5基発見されました。

これにより、遷都の当初から宮殿は礎石建ち(※)だったと考えられてきた従来の見解が改められることになり、大きな発見と言えるでしょう。

(※)地面に直接穴を掘って柱を立てる掘立(ほったて)に対して、地面に礎石(そせき)を置いた上に柱を立てて建築する方式。

また、ほぼ3メートル置きとなっている柱の間隔などから、遷都前の長岡京で発見されている同役割の宮殿と似通った造りで、移築されたか、間取りを流用した可能性が考えられています。

ちなみに、掘立柱は後に抜き取られ、9世紀から10世紀半ばにかけて礎石建てに建て替えられました。

登華殿の南西には雨を流すためと見られる石組みの溝や、弘徽殿とつながる渡り廊下の礎石と思われる石などが発見され、平成27年(2015年)から始まった調査の報告書が今回まとまったと言うことです。

終わりに

かつて登華殿に清少納言がいて、中宮定子とその父・道隆のやりとりを見ていた……ただ『枕草子』に記された出来事として、そのことを多くの方が知っています。

しかし、その場所についてより詳しく知ることが出来れば、よりいっそう味わいも深まろうというもの。

「あぁ、清少納言がこの渡り廊下を通ったのだろうか」

「あのやりとりを、清少納言はどの位置から見ていたのだろうか。父娘の背景に広がっていた庭園は(その角度から見ていたとして)、どれほど美しかっただろうか」

などなど、想いを馳せてみるのも楽しいですね。

※参考:
「源氏物語」「枕草子」舞台の建物跡 京都の発掘調査で初確認

 

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