剣豪集団・新選組は西洋式の軍隊だった!? 指揮官・土方歳三と二股口の戦いの前後から、その真相を読み解いた!
二股口の戦い前史! 剣豪集団・新選組の副長 土方歳三
新選組の組織編成において、土方歳三は非凡な才能を発揮していました。
実際に歳三が組織した新選組について見てみましょう。
- 局長ー副長&総長ー副長助勤(組長)ー伍長ー平隊士
まるで西洋軍団のような配置ですね。
通常、江戸時代の役職は複数制が原則です。
幕府の老中や若年寄を見ても、複数人が配置されていますよね。権力が集中することを防いでいるわけです。
しかし迅速な意思決定が出来ない分、スピードは落ちてしまいます。そこで意思決定の問題を解決したのが、西洋軍隊のような組織編成でした。
しかし歳三は、隊士たちに組織編成を馴染ませるためにある「工夫」をしています。
「局長」の「局」は、会津藩(藩主・容保は京都守護職)の一部署を指す言葉でした。
形式から見れば、隊士たちは新選組(初期は壬生浪士組)が会津藩の一部隊だと認識しますよね。
局長という役職名には、京都守護職の配下の一員として職務に精励する、という意識を持たせる意味もあったようです。
さらには、副長助勤にも特別な意味が込められています。
「助勤」とは、当時の最高学府・昌平坂学問所の寄宿舎の職員の役職名でした。
昌平坂学問所は、儒学を教えていた場所です。当然、助勤という響きには儒学的な響きを帯びていました。
新選組結成時は文久3(1863)年ですから、尊王攘夷運動が盛んな時期です。
西洋式の軍隊を取り入れる際、隊士たちが反発しては困りますよね。だからこそ、歳三ら幹部は「局長」と「助勤」という響きで、西洋軍隊の組織編成を隠した、と見て取れます。
2ページ目 新式銃部隊の指揮官、陸軍奉行並・土方歳三として二股口の戦いを勝利に導く