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酔っ払って妻を斬殺するも隠ぺい工作…第2代内閣総理大臣・黒田清隆の酒乱エピソード

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必死の隠ぺい工作

「あぁ……もうおしまいだ……」

酔いから醒めた黒田がいくら後悔しても後の祭り。現代で言うところの「文春砲(※)」を食らってしまい、政府のトップであった大久保利通(おおくぼ としみち)に辞表を出します。

(※)スキャンダルを週刊文春にスクープされ、政治家や著名人が辞任や活動停止などに追い込まれること。

……が、大久保はこれを慰留。「まぁ待て、俺が何とかしてやるから」と腹心である大警視の川路利良(かわじ としよし)に命じて土葬してあった清の遺体を墓から掘り起こさせます。

「えぇ、これは病死です。病死っつったら病死です。間違いありませんな」

「「「そんなバカな!」」」

伊藤博文や大隈重信(おおくま しげのぶ)らが「法にのっとって処断すべし」と主張していたものの、大久保はそんな声など一切無視。

(けっ、お前らだって、自分の藩閥である長州や佐賀出身者であれば、必死にかばい立てするくせに!)

大久保も黒田も、そして川路もみんな薩摩藩の出身で、こと川路については警察制度を確立した功績から後世「日本警察の父」と呼ばれますが、当時は薩摩藩閥の手先に過ぎませんでした。

※ちなみに、黒田は後に材木商・丸山伝右衛門(まるやま でんゑもん)の娘である滝子(たきこ)と再婚。黒田の酒乱にはさぞ悩まされたことでしょう。

エピローグ

かくして黒田の政治生命は永らえたのですが、そんな露骨な隠ぺい工作を世論が心から認めるはずもありません。

やがて大久保が暗殺されると事実上の政界トップに躍り出た黒田でしたが、酒乱ゆえの不祥事も相次いで間もなく第2次伊藤博文内閣に政権を譲ることになります。

「酒さえ呑まなきゃ、いい人なんだけどねぇ……」

大体そういうヤツはどうしたって酒を呑んでしまうもので、最期は明治33年(1900年)8月23日、脳出血のため満59歳で世を去りました。

この頃にはすっかり同郷の仲間たちからは見捨てられており、かつて敵(旧幕臣)であった榎本武揚(えのもと たけあき)が葬儀委員長を務めています。

(※)かつて戊辰戦争に際して、降伏した榎本の助命を訴えるべく黒田が頭を丸めた恩義を、忘れずにいたのでしょう。

ともあれ、あの世では理不尽に斬り殺したばかりか、保身のためにその屍を辱めてしまった妻に、とくと詫びて欲しいところです。

※参考文献:

  • 井黒弥太郎『人物叢書 黒田清隆』吉川弘文館、1987年10月
  • 小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 愛国志士、決起ス』小学館、2015年12月
 

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