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庶民も将軍も熱狂!江戸時代の相撲で名勝負を繰り広げたスター力士、谷風と小野川

庶民も将軍も熱狂!江戸時代の相撲で名勝負を繰り広げたスター力士、谷風と小野川:2ページ目

小野川喜三郎(初土俵1776~引退1797)

谷風が圧倒的な実力でその地位を着実に固めていた頃、一人の小兵力士が初土俵を踏みました。小野川喜三郎は近江国の大津京出身。琵琶湖西側の要衝の地で付近には東海道が通り、陸海の交易が大変盛んだった場所です。

デビューは安永5年(1776)の大阪相撲。後に江戸相撲に進出すると、久留米藩有馬家のお抱えとなりました。

小野川のサイズは推定176cm116kgの小兵で、力の谷風に対しスピード感のある相撲を得意としていました。「野翁物語」にも「玄秘妙手ありて、少しのスキのあるときは、谷風と言えども勝つことあり」と評されている通り、典型的な技巧派タイプの力士だったようです。ちなみに、江戸相撲においては、技に秀でた小野川よりパワーのある谷風の方が人気が高かったとも言われます。

谷風が落語に登場したのに対し、小野川は「有馬の化け猫騒動」を題材にした「有馬怪猫譚」に登場し、劇中では妖怪退治で活躍しています。これは「三大化け猫騒動」と謳われるほど人気で、芝居や寄席でも取り上げられています。

 

横綱制度の始まり

さて、時は天明2年(1782)2月蔵前場所(大護院/現蔵前神社)7日目、連勝街道を走っていた谷風は小野川と対戦することになります。当時の格付けは、谷風が大関、一方の小野川は二段目…これは現在の十両に相当するので、実績では谷風が大きく小野川を上回っていました。しかし、この両者の勝負は、小野川が谷風を下し大金星を上げ、その連勝を「63」で止めることとなります。

この一戦について、当時の人気狂歌師であった蜀山人(太田南畝)は…

「谷風は まけたまけたと 小野川が かつをよりねの 高いとり沙汰」

と詠んでいます。この歌によって、谷風の連勝ストップのニュースは江戸中に広まるところとなり、新しいスター誕生に当時の人々は熱狂したことでしょう。

その後も二人は熱戦を展開し、寛政元年(1789)には揃って横綱免許を授与されました。これは長い相撲の歴史の中で、横綱制度の始まりとも言われます。

そして、寛政年間(1789~1801)の相撲の爛熟期に貢献した二人のハイライトは、寛政3年の11代将軍徳川家斉の将軍上覧相撲です。

3ページ目 対戦は何とも後味の悪い結果に

 

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