庶民も将軍も熱狂!江戸時代の相撲で名勝負を繰り広げたスター力士、谷風と小野川:3ページ目
当時の背景としては、松平定信が主導した「寛政の改革」により厳しい倹約政策がとられていました。改革の波は娯楽産業を制限させることとなり、庶民たちの不満が日増しに高まっていた頃、上覧相撲が計画されました。これは将軍が直々に上覧することによって、江戸相撲の地位を確たるものにし、改革で疲弊した人心を掴む目的があったとされています。
それほどまでに当時の江戸相撲は江戸庶民に大きく影響力を持っていたことを表しています。その中の中心的な存在であった谷風と小野川の対戦には、多くの人々だけでなく、将軍家斉にとっても高い関心が寄せていたのは想像に難くないでしょう。
結びの一番で組まれた谷風ー小野川戦の結果は、小野川が見合った際に「待った」をかけると、行事の吉田追風は谷風に軍配を上げています。戦うことなく谷風が勝利した理由について、「呼吸は合っていたにもかかわらず、これを嫌った小野川は気合で谷風に負けている」とし、戦前の期待に反し、何とも後味の悪い結果となってしまいます。記録にもこの対戦は小野川の「気負け」という結果として残りました。
後日談として、谷風ー小野川戦から約40年後、阿武松―稲妻の両横綱が上覧相撲で対戦した際に、阿武松が「待った」をかけたところ、勝負はそのまま続行され、家斉は待ったをかけた阿武松が何故「気負け」にならないのかと側用人に質したと言います。家斉にとって谷風と小野川の一番は、心の中に相当残っていたのでしょう。
上覧相撲のあと、二人は江戸相撲を支えますが、現役中だった谷風に不幸が襲います。寛政7年、当時、江戸で大流行していたインフルエンザに罹ってしまい、35連勝中の中にあった谷風は急死してしまいます。
谷風は生前に「土俵上でワシを倒すことはできない。倒すことできるのは風邪くらいだ」と豪語しており、奇しくもその通りになってしまいました。現役バリバリの最中、感染症で命を落としてしまった谷風の訃報は、江戸庶民の心をさぞかし悲しくさせたことでしょう…。
現在、コロナ禍にいる現代人にとっても、谷風の死は強く響くような気がします。
一方、小野川は数々の激戦によってフィジカル面でかなり疲弊していったのでしょうか…上覧相撲の後から欠場することが多くなり、寛政9年10月場所を最後に引退し、その9年後の文化3年(1806)江戸で没します。
二人の没後、阿武松緑之助までの約22年間、横綱が誕生することはありませんでした。長い相撲の歴史において、これだけの期間、横綱が存在しない状態は唯一の例で、いかに二人が心技体で優れていたことを表しています。
谷風と小野川…今から200年以上も前の相撲界を牽引した二人の力士の活躍は、その後の力士たちに大きく影響し、それは現代相撲にも引き継がれていることでしょう。
こちらもあわせてどうぞ
あれってどういう意味?大相撲の千秋楽で最後の三番の勝ち力士には「矢・弦・弓」が渡される
横綱だけど弱い大関?初めて横綱として番付に載った西ノ海の複雑な事情とは?