源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【八】
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源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【七】
おごり高ぶる平家一門を討伐するべく挙兵した源頼朝(みなもとの よりとも)に付き従った北条義時(ほうじょう よしとき)は、数々の困難を乗り越えて鎌倉に入り、坂東に勢力基盤を築き上げます。
そんな中、頼朝の浮気が発覚して妻・北条政子(まさこ。義時の姉)が激怒。実家の北条一族を巻き込んだ壮絶な夫婦喧嘩の挙げ句、一時は鎌倉が分裂しそうな大騒動に発展。
……幸い事なきを得たものの、平家討伐の戦いはまだ始まったばかり。こんなところで内輪揉めをしている場合ではないのでした……。
長男・泰時の誕生、そして平家の滅亡
さて、気を取り直して武勲を目指す義時でしたが、鎌倉分裂の危機を回避した一件以来、なかなか頼朝が手元から放してくれません。
「あの、それがし戦さ働きを……」
「よい。そなたが我が傍らにおることこそ、何よりの忠功じゃ」
「……はぁ」
よっぽど北条一族に見放されるのが怖いのだろうな……それならば妻(姉の政子)を大切にし、浮気などせねばよいのに……そんな事を思っていた義時も寿永二1183年、長男の北条泰時(やすとき)が誕生しました。
しかし、まだ結婚はしておらず、母親の阿波局(あわのつぼね)はその出自も不明となっています。
(※史料を見る限り、阿波局と明記された女性は父・時政の娘つまり義時の異母妹と、佐々木高綱の孫娘がいますが、前者だと近親相姦になってしまいますし、後者はまだ生まれていないため、また別の「阿波局」がいたのでしょう)
要するに庶子(私生児)ですが、それでも我が子の可愛さに、嫡子と何の違いもありません。
「おぅ、よしよし……金剛(こんごう。泰時の幼名)よ、父は必ず手柄を立てて、鎌倉一の御家人になるからな」
そんな義時の願いが通じたのか、元暦二1185年に源範頼(みなもとの のりより。頼朝の異母弟)の軍勢に加えてもらい、都落ちした平家を追う九州上陸作戦(蘆屋浦の合戦。2月1日)に臨みます。
いっときは兵糧の不足に苦しんだものの、四国戦線で奮闘していた源九郎義経(くろうよしつね)らとの連携もあって勝利を収めました。
そして運命の3月24日。後世に伝わる「壇ノ浦の合戦」では、範頼と共に陸地を押さえて平家の軍勢を海上に締め出します。それを義経らの率いる船団が討ち滅ぼし、ここに治承四1180年から始まった「源平合戦(治承・寿永の乱)」に終止符が打たれたのでした。