源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【八】:2ページ目
功に驕る義経、周囲との確執を深める
こうして見ると非常にあっけなく、また義経の華々しい活躍に比べて非常に地味な印象ですが、義経の奇襲は平家の本隊を範頼たちが釘付けにしていたからこそ成功した側面も強く、義経一人の功績とするのは、いささか判官贔屓に過ぎるようです。
軍記物語『平家物語』などでは範頼たちはロクに戦いもせず、兵糧不足にも関わらず陣中で酒宴三昧だったかのように描かれていますが、それは義経を引き立てるための脚色である可能性があります。
しかし、義経は実際に「平家を滅ぼした第一の功名は自分にある」と考えており、その言動が周囲の御家人たちから疎まれ、頼朝も頭を悩ませていました。
「あやつは目の前の敵を倒すことこそ長けておるが、全体を見据えた戦略というものを知らぬ……」
義経としてみれば「もっともっと手柄を立てて、兄上に喜んで欲しい!」という純粋な思いから出た振る舞いだったのかも知れませんが、頼朝は個人的なスタンドプレーよりも、団結や協調性を重視していました。
「そんな事を言ったって、蒲の兄者(蒲冠者=範頼の別名)の窮地を打破できたのは、この九郎の働きがあったからでしょう!?」
では、最初から義経だけで平家をことごとく討ち滅ぼせたかと言えば甚だ疑問であり、やはり御家人みんなの連携プレーによって初めて勝利を勝ち取れたのです。
それを説き、義経を諫めた梶原平三郎景時(かじわら へいざぶろうかげとき)はまるで悪役のように言われがちですが、それはみんなの本音であり、頼朝の弟であるが故に忖度して言えないからこそ、景時が嫌われ役を引き受けていたのでした。
「よいですか。我らの勝利は佐殿の勝利であり、我らみんなの勝利であって、誰が手柄を立てたのどうのという小我(視野の狭い、小さなこだわり)にとらわれ過ぎてはなりませんぞ」
もし、義経にこうした苦言を聞き容れる度量があれば、その運命もまた違っていたかも知れません。
そんなやりとりを目の当たりにして、また頼朝の傍近くに仕えていた義時は、頼朝が何を好んで何を嫌い、また武士という生き物がどのように動くのか、動かせるのかといった、ある種の帝王学(大将学とでも言うのでしょうか)を身に着けていった事でしょう。