源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【八】:3ページ目
滅び去った義経と、これからの課題
その後、頼朝の真意を汲みとることなく義経は暴走を続けて周囲から孤立し、ついには後白河法皇(ごしらかわほうおう)に対して兄・頼朝の討伐を命じさせます。
「……九郎殿は、完全に(後白河法皇に)取り込まれてしまいましたな……」
事ここに至って看過できなくなった頼朝は、御家人たちに義経の討伐を命じます。もちろん、義経に謀叛を暗にそそのかした朝廷に対する脅しも忘れてはいません。
一方の義経は、人望のなさから呼びかけに応じる者も少なく、わずかな供を連れて京の都を脱出。時は文治元1185年11月3日、壇ノ浦に平家を滅ぼし、凱旋してからわずか半年余りの栄華でした。
さて、都を追われた義経は奥州一帯を支配している藤原秀衡(ふじわらの ひでひら)を頼って落ち延び、それを討つべく頼朝が朝廷の後白河法皇に義経討伐の宣旨(せんじ。命令)を求めましたが、大切な手駒を失いたくない後白河法皇は、なかなか首を縦に振りません。
「困ったのぅ……このままでは大義名分のない私闘となってしまう……」
朝廷の許可がないまま義経を討つべきか否か……喧々囂々(けんけんごうごう)と議論が紛糾する中、大庭平太郎景義(おおば へいたろうかげよし)が口を開きました。
「……『六韜(りくとう。古代中国の兵法書)』には『軍中の事は君命を聞かず、皆将より出づ(軍中之事、不聞君命、皆由将出:立将第二十一)』と申します。御殿は天下を平らげるべく鎌倉に陣を布いている総大将なれば、戦場(いくさば)の判断については、必ずしも朝廷の命を待つ必要はございませぬ」
おぉ……流石はインテリ、頼朝の願望に上手く根拠づけして、「朝廷のお墨付きなしで義経を討つ」という心理的ハードルをグッと下げてくれました。
「ナイスだ平太郎……その手で行こう!いざ出陣じゃ!」
後から朝廷に抗議を受けた時の言い訳が出来たので、頼朝たちは意気揚々と奥州征伐の兵を興し、義経はもちろん、義経を匿った奥州藤原氏(秀衡は病死、その嫡男・藤原泰衡ら)も討ち滅ぼします。
※余談ながら、実は義経が生きていたという説もあるようです。
身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【上】
身代わり伝説は本当か?今も眠る源義経の首級と胴体の「謎」を紹介【下】
この奥州征伐には義時も従軍しましたが、これと言った武功はなく、景義の当意即妙な進言を自分が出来ていたら……と、少し悔しく思うのでした。
頼朝の意を酌(く)み、実現していく。そういう経験の一つ一つが後に「武士の世」を築くビジョンを育て、それを裏づける頭脳を鍛えていったのですが、この時点では、まだまだ修行が必要な義時でした。
【第一部・完】
※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月