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江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【中】

江戸時代にも活躍していた!武田信玄の軍師・山本勘助の伝説を受け継いだ子孫たち【中】

「勘助ファン」な水戸藩主からオファーが来るも……?

そんな失意の三郎右衛門に、思わぬ朗報が舞い込みます。

時の水戸藩主・徳川頼房(とくがわ よりふさ。家康の11男)が大の軍学フリークで、当時流行していた『甲陽軍鑑』に登場・活躍している初代・山本菅助(勘助)の大ファン。そこで、菅助の子孫がいるなら是非とも召し抱えたい、と言うのです。

「キタ―――(°∀°)―――!」

もし当時にアスキーアートの概念があれば、絶対にそう口走っていた事でしょう。善は急げ、欣喜雀躍として水戸藩にアポイントを取った三郎右衛門は、コレはもう絶対イケるに決まっている!と、wktk(※)しながら採用通知を待っていたのですが……。

(※)ワクテカ。楽しみで胸がワクワク、肌もテカテカ(血色がよい様子)させて(待って)いる様子。

「……あれ?」

いつまで経っても通知が来ないので、痺れを切らした三郎右衛門が水戸藩に問い合わせたところ、ウンともスンとも言いません。採否はもちろん理由すら教えて貰えず、いつしか仕官の話は沙汰止み(うやむや)になってしまいました。

「一体、どういう事なんだ!」

……と言うのも、実は同じころ、軍学フリークな頼房の元へ、上杉謙信の軍師(山本菅助のライバル)として活躍した宇佐美駿河守定行(うさみ するがのかみさだゆき。定満)の孫と自称する宇佐美造酒助勝興(みきのすけ かつおき)という人物が仕官を求めて来ていました。

「おぉ!山本菅助と宇佐美定行、武田と上杉の名軍師の孫が同時に仕官を求めて来るとは何という奇遇!これは実に運がよいぞ!」

などと、最初は大喜びでウェルカムしていた頼房でしたが、勝興の身辺調査をさせたところ、履歴詐称(定行と血縁関係になかった事実)が発覚。勝興の仕官が取り消されたのはもちろん、三郎右衛門も怪しいんじゃないの……?と疑われてしまったようで、とんだとばっちりと言えるでしょう。

【続く】

※参考文献:
海老沼真治編『山本菅助の実像を探る』戎光祥出版、2013年
丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
笹本正治『軍師山本勘助―語られた英雄像』新人物往来社、2007年
山梨県立博物館編『実在した山本菅助』山梨県立博物館、2010年

 

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