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豊臣秀頼は二人いた!? 豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】

豊臣秀頼は二人いたんです!秀吉が公認した「もう一人の豊臣秀頼」ってどんな武将だったの?【二】:2ページ目

毛利「河内守」長秀、赤母衣衆に抜擢されて大活躍

さて、桶狭間で立てた武功は信長からの覚えめでたく、長秀は河内守(かわちのかみ)の官途(かんど)を与えられます。

官途とは主君が家臣の手柄に対して官職の私称(朝廷からの公認なく、勝手に名乗ること)を許可することを言い、実際には河内国(現:大阪府東部)を治めていないものの、武家社会では名誉なこととされました。

そして永禄十1567年、信長が馬廻の中からより精鋭の「母衣衆(ほろしゅう)」を創設すると、27歳の長秀もそのメンバーに抜擢。長秀は比較的年少者で構成される赤母衣衆(年長者は黒母衣衆)に配属され、後に加賀百万石の大大名となる「槍の又左」こと若き日の前田又左衛門利家(まえだ またざゑもんとしいえ)らと戦歴を重ねます。

いくつもの戦場を渡り歩いた長秀には多くの武勇伝がありますが、中でも面白いエピソードがあるので、こちらに紹介したいと思います。

時は元亀元1570年9月7日、信長の軍が天満の森で一向門徒(石山本願寺)と交戦。長秀は敵将・長末新七郎(ながすえ しんしちろう)に挑みかかりました。

「いざ、勝負!」

猛然と槍を繰り出した長秀でしたが、その穂先が届くより早く、横から突き出した槍が敵将の首を貫通しました。

3ページ目 功名は自分で立てるもの……敵将の首級を譲り合う武士の矜持

 

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