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江戸時代、遊女の最期は寺に投げ込まれていた?苦界に身を落とした遊女たちが眠る浄閑寺とは

江戸時代、遊女の最期は寺に投げ込まれていた?苦界に身を落とした遊女たちが眠る浄閑寺とは

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2019/09/30

苦界に身を落とした遊女を供養する

浄閑寺には、1743年・寛保3年から1926年・大正15年までの遊女の名を記した過去帳が現存するそうです。そして浄閑寺に葬られた遊郭関係者(遊女、遊女の子供や遺手婆)の数は、推定2万5千にもなるとか。

そんな遊女たちを供養する「新吉原総霊塔」が、浄閑寺にはあります。

もともとあった「供養塚」を改修したのは、昭和4年のこと。供養塚は、安政江戸地震で亡くなった500人にもなる遊女を供養していました。

それを「新吉原総霊塔」として、浄閑寺に眠る2万5千にも及ぶ魂を慰めているのです。

「新吉原総霊塔」の壁面には、「生きては苦界、死しては浄閑寺」という文字が刻まれています。この言葉は、川柳作家・花又花酔が読んだ句です。花又花酔は、浄閑寺を訪れては遊女たちの哀しい人生を偲んでいたのでしょうか。

昭和に入り、売春防止法が定められて吉原の歴史は終わりました。しかし、現在でも吉原はソープランドが並ぶ風俗街となっています。浄閑寺で眠っている遊女たちは、時代が巡っても変わらない街並みをどのように見つめているのでしょうね。

参考サイト:浄閑寺

 

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