腹切るくらい安いもの…山本権兵衛の政治使命と「臥薪嘗胆」エピソードを紹介:3ページ目
「おいとおはんで、腹ァ切り申(も)そ」
さて、海軍が進めていた六六艦隊計画とは、ごくざっくり説明すると「明治二十九1896年から同三十八1905年までの10年間で、戦艦6隻+装甲巡洋艦6隻+サポート艦艇多数を揃える計画」で、計画の目玉となる戦艦と装甲巡洋艦が6隻ずつなのでそう呼ばれたのでした。
艦艇の建造は国内だけでなくイギリスなどにも発注しており、総力挙げての調達となったのですが、ここで想定外のトラブルが起こりました。
なんとコストが高騰したことで戦艦の建造に充てる予算がなくなり、工事が暗礁に乗り上げてしまったのです。
海軍の予算自体はまだ残っているものの、その使途は項目ごとにきちんと決められており、勝手に使い回すわけにはいきません。
かと言って、国会の会期を待って予算の修正をかけ合っていたら、来たるべき決戦に後れをとってしまいます(当然ながら、戦艦ができるまでロシアが待ってくれるとは思えません)。
「あぁ、ばったいいかん(どうにもならぬ)。こん難局にこん有様……おいはどげんしたらよかか……」
頭を抱えているのは海軍大臣の山本権兵衛(やまもと ごんのひょうえorごんべえ)。薩摩出身で幕末の薩英戦争や戊辰戦争を闘い抜いた志士上がり、明治に入ってからは海軍に仕官・奉職した叩き上げの軍人です。
権兵衛は海軍大臣の就任に際して「ロシア海軍に勝利する」ことをほぼ唯一の目標と定め、ロシアが強敵と承知の上で「たとえ日本の軍艦の半数を犠牲にしてでも、ロシアの軍艦を全滅させる」覚悟を公言していた山本にとって、建造の後れは死んでも詫びきれないほどの大失態。
机を叩き割るほど悩み抜いても妙案が浮かばず、さすが歴戦の権兵衛も、すっかり憔悴しきってしまいました。
「……おや、山本(やまもっ)どん。どげんした?」
そこへ現れたのは海軍の先輩である西郷従道(さいごう じゅうどうorつぐみち)。かの「西郷どん」こと亡き西郷隆盛の弟で、この頃は日本最初の海軍元帥(げんすい。軍人の名誉職および称号)となっていました。
「あぁ、西郷(せご)さぁ……実はかくかくのしかじかにごわして……」
従道は権兵衛の苦悩をすっかり聞いてやると、静かに短く言いました。
「……よか。おいとおはんで、腹ァ切り申(も)そ」
4ページ目 「たとえ命に代えてでも、日本のため、未来のために」