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荒海こえて行ったり来たり!日本書紀に登場する北方の異民族「粛慎(みしはせ)」とは?

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怪現象や略奪騒ぎ……「粛慎」とのファーストコンタクト

『日本書紀』によると、日本人と粛慎のファーストコンタクトは欽明天皇五544年。

越国(こしのくに。現:北陸地方)の住民が言うには、粛慎の人々が船でやって来て、御名部(みなべ。佐渡島北部の地名だが、詳細不明)の海岸に停泊。

春や夏には魚を獲って暮らしていたそうですが、佐渡島の住民たちは「あいつらは人間じゃない。鬼かも知れない」などと恐れて、彼らに近づくことはなかったそうです。

【原文】越國言。於佐渡嶋北御名部之碕岸有肅愼人。乘一船舶而淹留。春夏捕魚充食。彼嶋之人言非人也。亦言鬼魅、不敢近之。
※『日本書紀』欽明天皇五年十二月条

ある時(粛慎の人々が滞在中)、佐渡島の東部にある禹武(うむ)村の住民がドングリ(椎の実)を集め、煮て食べようと灰の中で炒って(灰汁抜きのため?)いたところ、ドングリが二粒、それぞれ小人の形になって一尺(約30センチ)ほども飛び上がり、互いに喧嘩を始める、という怪現象がありました。

これは何かの異変に違いない!」と占ってもらったところ「この村の者はやがて鬼に惑わされるであろう」という結果が出て、間もなく禹武村は略奪に遭ったということです。

【原文】嶋東禹武邑人採拾椎子、爲欲熟喫。着灰裏炮。其皮甲化成二人、飛騰火上一尺餘許。經時相鬪。邑人深以爲異、取置於庭。亦如前飛相鬪不已。有人占云「是邑人必爲魃鬼所迷惑。」不久如言被其抄掠。
※『日本書紀』欽明天皇五年十二月条

この禹武村での略奪が、御名部海岸にいた粛慎による犯行なのか、その因果関係は判りません。

先ほど「春と夏は魚を獲って暮らしていた」ことが記されていましたが、秋から冬にかけて魚があまり獲れなくなり、飢えた粛慎の人々が禹武村まで遠征・略奪した可能性も、両地の位置関係次第ではありえなくもなかったでしょう。

やがて粛慎の人々は舟で瀬波河浦(せなみかわのうら)という場所に移住するのですが、恐らく村人たちが「あいつら(粛慎)の仕業に違いない!」と追い立てた結果と考えられます。

瀬波河浦は聖域だったようで、住民は神々を畏れてそれ以上追って来なかったものの、孤立した粛慎の人々は食糧や水の確保もままならず、渇きのあまり海水(浦の水)を飲んで次々と死亡。

やがて死者は半分にも達し、その骨(亡骸)は岩穴に溜まった(捨てられていった)ため、そこそ「粛慎隈(みしはせのくま)」と呼ぶようになったそうです。

【原文】於是肅愼人移就瀨波河浦。浦神嚴忌。人敢近。渴飮其水。死者且半。骨積於巖岫。俗呼肅愼隈也。
※『日本書紀』欽明天皇五年十二月条

記述はここまでとなっていますが、恐らく粛慎の人々は「もうこれ以上ダメだ!定住or拠点化は諦めよう!」と撤退していったものと考えられます。

こうして日本人と粛慎とのファーストコンタクトは終わったのでした。

3ページ目 斉明天皇による粛慎征伐の始まり

 

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