荒海こえて行ったり来たり!日本書紀に登場する北方の異民族「粛慎(みしはせ)」とは?:4ページ目
粛慎との交渉決裂・弊賂弁嶋の決戦
そこで阿倍臣は次なるアプローチとして、色鮮やかな絹や武器、鉄などを海岸に並べて置き、自分たちは少し離れ、粛慎に持って行かせようとしました。
暫く待っていると、粛慎の船から2人の老人が上陸し、並べ置かれた絹などを観察すると、その一部を船に持って帰りました。
「これでアプローチ成功か?」と思われましたが、再び老人がやって来て、持ち去った物品を元に戻して船に引き上げていきました。
【原文】阿倍臣乃積綵帛・兵・鐵等於海畔而令貪嗜。肅愼乃陳船師、繋羽於木、擧而爲旗。齊棹近來停於淺處。從一船裏出二老翁。廻行熟視所積綵帛等物。便換著單衫、各提布一端。乘船還去。俄而老翁更來脱置換衫、并置提布。乘船而退。
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条
随分とまどろっこしいやりとりですが「降伏すれば、これらの品々をくれてやる」というメッセージだったのでしょうか。
かくして交渉は決裂、その後も阿倍臣は何度かアプローチを試みるも応じず、粛慎たちは渡島の一部といわれる弊賂弁嶋(へろべのしま。渡島≒北海道の一部と言われるが、利尻島or奥尻島などと推定されている)まで退却し、砦(柵)に立て籠もったそうです。
事ここに至って阿倍臣は粛慎に対して宣戦布告、その立て籠もる砦を攻め立てたところ、やがて粛慎が和睦を求めて来ましたが、阿倍臣はこれまでのアプローチに対する非礼に怒っていたのか、これを拒絶。
激戦の中で阿倍臣の部将である能登臣馬身龍(のとのおみ まむたつ)が戦死したものの、ついに粛慎の砦は陥落。粛慎たちは「最早これまで」と妻子を殺し、(記述にないものの)自分たちも自決したようです。
【原文】阿倍臣遣數船使喚、不肯來。復於弊賂弁嶋。食頃乞和、遂不肯聽。<弊賂弁、度嶋之別也。>據己柵戰。于時能登臣馬身龍爲敵被殺。猶戰未倦之間。賊破殺己妻子。
※『日本書紀』斉明天皇六年三月条