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鬼太郎の原型を作ったのは危険人物?ゲゲゲの鬼太郎の原型「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【3】

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時代は紙芝居から絵物語、漫画へ

戦後の昭和21(1946)年、伊藤は、義理の兄でもある五島金之輔が創立した紙芝居製作所「画劇文化社」に参加します。画劇文化社は伊藤と辰巳を中心におき、新たな紙芝居を製作しました。伊藤は経営者の1人にもなっています。

画劇文化社は『冒険活劇文庫』(明々社)にも関わります。『冒険活劇文庫』は昭和23(1948)年に創刊された絵物語雑誌で、主に画劇文化社系の紙芝居作家が、絵物語を執筆したのです。そして画劇文化社ルートで、紙芝居屋がこの本を売ることもありました。

絵物語とは、紙芝居作家でもあった山川惣治の『少年ケニヤ』に代表される児童向け出版作品。昭和20年代に大ブームとなりました。『冒険活劇文庫』においては、永松健夫『黄金バット』や小松崎茂『地球SOS』が大ヒットしています。

『冒険活劇文庫』の人気は数年続きますが、昭和25(1950)年に『少年画報』と改題され、漫画雑誌へと変化していきます。

子どもの娯楽の中心は、紙芝居から絵物語を経て、漫画へと移ろうとしていました。
手塚治虫が登場し、ストーリー漫画の時代がやって来たのです。

時代が変化するなか、伊藤は昭和29(1954)年に、実演者(紙芝居屋)、制作貸元、作家・画家、教育紙芝居関係者を集めて「文化クラブ」を結成します。機関誌を発行するなど、紙芝居の作り手とファンのために働きました。

しかし昭和30年代後半までに街頭紙芝居の火は消えていきます。その後の伊藤の人生は詳しくわかりません。水木しげるが貸本漫画『墓場の鬼太郎』を書くことを諒解しますが、本人は創作の世界から離れたようです。

それでも伊藤正美が、紙芝居はもちろんのこと、日本の子ども向けエンターテインメントの発展に寄与した人物であることは間違いないといえるでしょう。

参考文献:
『紙芝居昭和史』加太こうじ(岩波書店)
『ゲゲゲの人生 わが道をゆく』水木しげる(NHK出版)
『紙芝居文化史ー資料で読み解く紙芝居の歴史』石川幸弘(萌文書林)
『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝(河出書房新社)
『紙芝居の世界 黄金バットと紙芝居のおじさんに魅了された、あの時代』監修・昭和館(メディアパル)

 

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