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鬼太郎の原型を作ったのは危険人物?ゲゲゲの鬼太郎の原型「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【3】

鬼太郎の原型を作ったのは危険人物?ゲゲゲの鬼太郎の原型「ハカバキタロー」と紙芝居作家たち【3】:3ページ目

神戸生まれの伊藤正美が、東京で紙芝居作家になるまで

そんな伊藤正美は、どのような経緯で紙芝居作家になったのでしょうか。

伊藤は兵庫県神戸市の小さな鉄工所の一人息子でした。ちなみに水木しげるが「鬼太郎」を書き始めたのも神戸。キタローと鬼太郎は、神戸の地に縁があるようです。

その神戸で育った伊藤正美は文学青年でもありました。昭和7(1932)年に雑誌の短編懸賞小説に応募し、佳作に選ばれます。

これでプロの作家になろうと決意した伊藤は、家出して上京します。画家である友人と一緒でした。

ところが東京へ来てみると、小説を書くあてはないどころか不況で職につけません。そんななかで友人の画家が、富士会という紙芝居製作所で絵を描く仕事をみつけてきます。

紙芝居製作所とは、いわば紙芝居の元締めです。作家や画家に紙芝居を書かせ、出来た作品を紙芝居屋に貸し出しました。映画に例えると製作会社と配給会社を合わせたような存在です。

その富士会は画家に、絵だけでなく脚本も付けよと条件を出します。すぐに使える紙芝居を書けるなら採用ということだったのでしょう。そこで画家は、伊藤に脚本を書いてもらいます。

すると富士会主の五島金之輔は脚本を気に入り、伊藤だけを採用しました。友人がどうなったかわかりません。ともかく伊藤は紙芝居の脚本を書く仕事を得ました。
おまけに伊藤は生涯の伴侶を得ます。五島の妹と出会い結婚することになったのです。

こうして紙芝居の脚本作家となった伊藤は、昭和8(1933)年、民話『飴屋の幽霊』をモチーフに『ハカバキタロー』を書きました。デビュー後すぐヒット作を生み出したのです。その後も『河童小僧』などヒット作を書いていきます。

また、昭和12(1937)年に十数社の紙芝居製作所が統合して出来た「大日本画劇株式会社」においては、編集部員として活動しました。

加太こうじの著書には伊藤正美の名が多く登場します。仲間のうちでも特に親しかったようです。だからこそ戦後、水木しげるに『ハカバキタロー』の思い出を語り、水木が「鬼太郎」を書くことに繋がったのかもしれません。

4ページ目 時代は紙芝居から絵物語、漫画へ

 

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