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[今さら聞けない幕末] で結局、尊王攘夷とは何?3つの時期に分けて解説

[今さら聞けない幕末] で結局、尊王攘夷とは何?3つの時期に分けて解説:2ページ目

②1862~1864年 尊王攘夷vs公武合体

さて、日本中からブーイングを食らった幕府はどうにか幕府の権威を取り戻し、日本を一枚岩にしたい。そのために出てきた秘策が「公武合体政策」=朝廷と幕府の仲良しアピールでした。幕府は天皇に、日本が弱すぎて今すぐ攘夷が出来ないことを説明し、「朝廷と幕府が協力して強い日本を作り、その後攘夷しましょう!」と約束。

こうして孝明天皇の妹・和宮が、将軍徳川家茂と結婚し、尊王攘夷派を黙らせようとしたのです。同時期に薩摩もイギリスとの戦争に負け、今は攘夷が出来ないことを悟り、公武合体派へ。以降「尊王攘夷派」vs「公武合体派」の構図が出来上がります。


皆がなんとなく公武合体になびいている頃、長州だけは「ハイパー尊王攘夷野郎」。誰も攘夷しようとしないのにキレて、京都に次々刺客を送り込み、開国やら和宮降嫁に関係した人たちを「天誅」と称して次々暗殺。

ちなみに「天誅!」というのは、「天(天皇)に代わってお仕置きよ!」というような意味。頼みもしないのに担がれ、さすがの孝明天皇もドン引きして長州を見捨てます。「尊王攘夷派」はついに孤立するのです。

3ページ目 ③1864年後半~ 尊王攘夷は時代遅れ

 

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