アメリカにも衝撃を与えた!日本画の技でアメリカの壮大な風景を描いた「小圃千浦」の生涯
小圃千浦(おばたちうら 1885−1975)は画家でカリフォルニア大バークレー校の名誉教授。アメリカのヨセミテをはじめ、壮大な光景を日本画の技法で描き出しました。
岡山県伊原町(現・井原市)に生まれた千浦は、5歳のときに洋画家で美術教師の兄の養子として仙台で育ちました。7歳で墨絵を学び始めた千浦は幼い頃から非凡な才能を表し、14歳で日本画の大家である邨田丹陵に師事。若くして日本画壇で活躍しますが、更に広い世界を学ぶために1903年に単身渡米。
サンフランシスコでは日系地方紙のイラストレーターなどで生計を立て、1912年に小橋春子と結婚します。
1927年にカリフォルニア大美術部享受ワース・ライダーにヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行に誘われたことが千浦の大きな転機となりました。このスケッチ旅行で描いた作品展「ヨセミテ・シリーズ」がきっかけとなり、1932年に日本人初のカリフォルニア大バークレー校の日本画講師として教鞭をとりました。
日本では見られない広大な景色を日本画のテクニックを駆使して描いた「サクラメントヴァレーの日没」は、アメリカの画壇にも衝撃を与えました。燃えるような夕陽の迫力には圧倒されます。「山上の湖」では自ら鉱石のラピスラズリを砕いて作った顔料を使い、深く美しい青で氷河湖を描き出し「オバタ・ブルー」と賞賛されました。
1941年に日米が開戦すると千浦は敵国人としてみなされ、11万人の日本人とともに強制収容所に送られました。収監されたタンフォラン収容所では「いかなる状況下にあっても、教育は食糧同様に重要だ。なかでも芸術は、もっとも建設的な教育だと信じる。」との信念のもと、収容所内に「タンフォラン美術学校」を設立。多くの日本人の心を癒やし、生きる希望を与えました。
終戦後には大学に復職し、バークレー校で名誉教授となります。その後は日本の自然と文化を紹介することに身を尽くしました。毎年のヨセミテ渓谷へのスケッチ旅行は欠かさず、1975年に90歳でバークレーで亡くなりました。千浦の死後、カリフォルニア大バークレー校には千浦と春子夫妻を記念した日本庭園とゲートが作られました。
日本画の魅力とアメリカの美しい景色が融合した作品は、現代の私たちの目にも新鮮です。
The GREAT NATURE of Chiura Obata
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