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別れても、とだえぬ絆…大河ドラマ「光る君へ」第39回放送(10月13日)振り返り!

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敦明王と結婚した藤原延子(山田愛奈)とはどんな女性?

【光る君へ】藤原道長、許すまじ!夫婦の絆を引き裂かれ絶望の内に世を去った藤原顕光の娘・延子の悲劇

平安時代、娘を入内させて皇室の外戚となり、権力を掴もうと狙ったのは藤原道長だけではありませんでした。今回は道長のライバル?とも言われた藤原顕光(あきみつ)の娘・藤原延子(えんし/のぶこ)を紹介…

寛和元年(985年)ごろ生~寛仁3年(1019年)4月10日崩御

藤原延子(えんし/のぶこ)は藤原顕光の娘として生まれ、居貞親王と藤原娍子の嫡男・敦明王(阿佐辰美)と結婚します。

やがて三条天皇が後一条天皇(敦成親王)に譲位すると敦明王は親王&春宮となり(それが三条天皇の出した譲位の条件でした)、夫婦仲も円満でした。

しかし三条天皇が崩御すると約束は反故にされ、敦明親王は道長の圧力によって春宮の座を辞退させられてしまいます。

それだけでなく、道長は敦明親王と自分の娘である藤原寛子(かんし/ひろこ。源明子との子)を結婚させました。

これによって延子は棄てられ、失意の内に薨去。父の顕光まで薨去してしまいます。

二十数年にわたり邪魔者であった顕光が消えて、道長も喜んだことでしょうが、話はこれだけでは終わりません。

顕光と延子は悪霊となって道長一族に次々と祟りをなし、ついには寛子を祟り殺してしまうのでした。

祟りを恐れた人々は、顕光を悪霊左府(あくりょうさふ。左府は左大臣の意)と呼ぶようになります。

劇中では源明子(瀧内公美)が入内の望みをかけていた寛子。娘の死に際して、彼女の怒りはどこへ矛先を向けるのでしょうか。

4ページ目 藤原惟規が遺した和歌

 

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