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後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態

後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態

後鳥羽上皇は「討幕上等」だった?

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)は、承久の乱を起こして鎌倉幕府に真っ向から対抗した人物として知られています。

政治への関心が強かった後鳥羽は、わずか19歳で息子に皇位を譲り、上皇として院政を開始。仲恭天皇までの3代にわたって朝廷を取り仕切りました。

そんな後鳥羽からすると、鎌倉幕府は朝廷による統治を妨げる邪魔者でしかありません。そこで幕府を打倒するために軍事力を強化し、討幕計画を練っていたというのが通説です。

ここでいう軍事力とは、院御所の西方に置かれた西面の武士のことです。彼は身辺警護を名目に有力御家人を囲ったのでした。

その後、3代将軍である源実朝が暗殺されて幕府が動揺している隙に、上皇は討幕を決行します。

しかし、幕府が御家人の大規模動員に成功したことで、朝廷は敗北。上皇は佐渡に流され、幕府が名実ともに朝廷を上回る権力を手に入れることになったといわれています。

このように、上皇が計画的に幕府打倒を目指していたというのが通説ですが、現在この通説は否定されています。

上皇がいつ討幕を決断したかはよくわかっていないものの、実朝の存命中には武力蜂起の意志はなく、むしろ朝廷と幕府の融和を図ろうとしていたと考えられるようになっているのです。

2ページ目 実朝との親睦

 

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