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後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態

後鳥羽上皇は「討幕上等!」ではなく、実は鎌倉幕府との対立を避けていた?〜 融和政策の実態:2ページ目

実朝との親睦

上皇の融和政策が失敗したのは、実朝が暗殺されたことが影響しているとみられています。

実は後鳥羽と実朝は、直接会ったことはありませんでした。それでも両者は親密な関係を築いていました。

例えば「実朝」という名前は、将軍就任にあわせて後鳥羽が命名したものです。建仁3年(1203)9月、実朝が12歳のときのことでした。

さらにその2ヵ月後には、後鳥羽は従姉妹を鎌倉に送っています。目的は、両者の婚姻関係を結び、幕府と朝廷の関係を強化することでした。

また、上皇は実朝に歌集を送るなど、朝廷文化を通じて友好的な態度を見せています。実朝も歌を送るほどに上皇へ信頼を寄せるようになり、都の文化への憧れを強くしていったふしがあるのです。

実朝がまとめた和歌集である『金槐和歌集』には、京への憧憬や将軍としての鬱積などが詠まれており、後鳥羽から影響を受けたとおぼしき歌も収録されています。

後鳥羽からすれば、実朝との関係強化によって、幕府を間接的に支配する腹積もりもあったのでしょう。子がいなかった実朝は、上皇の息子を次期将軍にするつもりでした。

そのことについては、鎌倉幕府の有力御家人たちも、天皇の子であれば権威としては申し分ないとして、当初は歓迎していたのです。

後鳥羽上皇が幕政に関与した可能性は十分にあったと言えるでしょう。

3ページ目 幕府との確執

 

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