実はお人好しだった織田信長!?最初から最後まで周囲に裏切られ続けた信長の人生
家督を継いで裏切られる
稀代の英傑であり、家臣に厳しく隙のない性格だったと想像されがちな織田信長ですが、そのイメージも最近は大きく変わりつつあります。
言うまでもなく、彼が活躍した戦国時代は裏切りや謀反による下克上が当たり前の時代でした。
そんな時代の中で、実は臣下たちに裏切られ続けた武将の代表格が、意外なことに織田信長です。
まず、彼が最初に裏切られたは1552(天文21)年に家督を継いだ時のことです。織田家の筆頭家老である林秀貞は、信長は当主にふさわしくないと考えており、翌年に信長の弟の信勝を党首に据えようと挙兵しています。
この時、柴田勝家も信勝側に与していましたが、結果は信長が勝利。しかし、母親のとりなしによって、彼は挙兵した三者を許しました。柴田勝家が、その後も信長の優秀な家臣として仕え続けたのはご存じのとおりです。
同盟相手や家臣にも裏切られる
その後、勢力を拡大してからも、信長は裏切りによってピンチに陥っています。まずは有名な浅井長政による背後からの急襲です。
この裏切りの理由は諸説あって判然としませんが、長政の同盟相手である朝倉家を、信長が攻めたことへの反発だったとされています。この時に信長が受けたダメージは大きく、難を逃れて京へ戻った時の残りの兵は僅か十人でした。
また、信長に謀反を起こした裏切り者の代表格の一人が松永久秀でしょう。
彼は1572年(元亀3)年に足利義昭について信長に反旗を翻しましたが、その後、信長は久秀を許しています。しかし久秀はその後も1577(天正5)年に石山本願寺攻めの途中で離脱し、居城へ籠城しました。
その後も、武田信玄による織田家との同盟破り、荒木村重による裏切り、そして本能寺の変と続いています。
当主に就任すれば身内から裏切られ、最後は明智光秀の裏切りによって命を落とし……。信長の人生は最初から最後まで裏切られる人生であり、もともと裏切られやすい武将だったと言えるでしょう。