戦国時代の容赦なき粛清…黒田官兵衛・長政親子に一族と家臣もろとも謀殺された武将・城井鎮房の悲劇:4ページ目
城井一族の祟りは末代まで続いた
しかしながら、家を守るためとは悲惨なまでに一族家臣を謀殺した鎮房の黒田家への怨念は強く、度々鎮房の霊が中津城に現れ、長政を恐怖させました。
官兵衛も強弓の使い手だった勇将を謀略で殺害してしまったことを後悔し、鎮房を祀るための城井神社を中津城に建立したほどです。
しかし、長政死後にお家騒動の黒田騒動が勃発。さらには、長政の玄孫で福岡藩6代藩主の黒田継高の代で、時期藩主となりうる跡継ぎ2人を在任中に亡くした上に継高の孫も夭折したことで、官兵衛からなる黒田本家の血筋は断絶しました。
その後も歴代藩主たちは後継ぎを決めずに亡くなったり、後継ぎが先立たれたりと後継者問題に悩まされ続けます。
また、12代藩主の黒田長知が知藩事を解任する事態も起こり、長政の時から黒田家に相次いで起こった不幸は、城井一族の祟りや報復ではないかと噂されるまでになりました。
一族の滅亡で失われてしまった伝統技術…
また、城井一族には艾蓬(がいほう)の射法という神功皇后が三韓討伐の際に用いた秘法が、豊前宇都宮氏の遠祖である藤原道兼から当代まで受け継がれていました。
艾蓬の射法は、吉凶の占いや戦勝祈願に使用される弓術儀式で一子相伝のため、当主以外はできませんでした。
そのため、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に艾蓬の射法を執り行おうとしましたが、この時期には鎮房もしくは朝房が暗殺されていたので、艾蓬の射法の断絶を知った秀吉は深く後悔したと言われています。