戦国時代の容赦なき粛清…黒田官兵衛・長政親子に一族と家臣もろとも謀殺された武将・城井鎮房の悲劇:3ページ目
長政によって悲惨な最後を迎える
これで一件落着かと思いきや、長政は鎮房のこれまでの行いから再度反旗を翻す可能性があるとして、城井一族の根絶やしを決断します。
天正16年(1588)に鎮房は、長政が主催する酒宴の招待を受け中津城へ。この時、鎮房の家臣たちは城下の合元寺にて待機させられました。
これは官兵衛の策略で、家臣たちと切り離された鎮房は酒宴の場で謀殺される最後を迎えました。
また、合元寺にいた家臣たちも黒田家の家臣たちとの斬り合いの末、全滅しました。
あまりにも悲惨な最後だったことから、本来白だった合元寺の壁が城井家家臣たちの血痕が何度塗っても浮かんでくるため、赤に塗り替えたとの伝承が残っています。
父も子も娘も悲劇を迎える
鎮房の死を受けて、嫡男の城井朝房は肥後国人一揆を共に対処していた官兵衛によって暗殺。父の長房は城井谷城に攻め寄せた黒田勢によって殺害されました。
さらに、人質となっていた鶴姫も、長政の手によって13人の侍女と共に千本松川原(現在の福岡県築上郡吉富町小犬丸)にて磔刑に処されました。
こうして、黒田親子によって徹底的に粛清された城井一族でしたが、朝房の遺児・宇都宮朝末の孫が越前松平家に召し抱えられたことで血は絶えずにすんでいます。