江戸時代のペリー来航時に通訳として活躍!日本の英語研究の基礎を築いた「堀達之助」とは?:2ページ目
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黒船来航時に「私はオランダ語が話せる!」と叫んだ!?
その後の日本社会を大きく変えることになる1853年(嘉永6年)の黒船来航。ペリーが乗るサスケハナ号に向かって、堀達之助は
「I can speak Dutch!”(私はオランダ語を話すことができる)」
と叫んだとも言われています。
浦賀奉行所与力の中島三郎助がサスケハナ号を訪れた際に、堀も通訳として同行。2人で交渉を担当しました。
このとき、通訳の腕がアメリカ側にも認められ、翌年の日米和親条約の締結の際にも、和解(和訳)を担当しました。
まさかの入牢!?
日本にとってとても重要な役割を担っていた堀ですが、1855年(安政5年)に、ドイツ通商要求書簡独断没収の罪でまさかの入牢。しかし、これは冤罪とも言われています。
獄中では、吉田松陰と知り合い、その後も交流を続けました。翌年には赦免され、幕府の対訳辞書編集主任になりました。外国の新聞を翻訳したり、日本初となる本格的な英和辞書である『英和対訳袖珍辞書』を刊行したりしています。
日本における英語研究の基礎を築いた人物として、今でも彼の功績は大きくたたえられています。
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いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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