踊ってる場合じゃないだろ!踊り好きが災いし城を落城させてしまった戦国武将がいた!:2ページ目
踊りにつられて城を失う…
金剛城は標高293mの堅牢な山城かつ源六が武勇に秀でていたため、玆矩は力攻めでは落とせないと判断し、策を練ります。
策のために源六を調べた結果、大の踊り好きであることが判明しました。
そして、天正8年(1580)の盂蘭盆会(7月14日)に金剛城の城下町にて踊りの大会を実施しました。笛や太鼓が加わった踊りに領民たちは大盛り上がり。
その様子を見た源六は居ても立っても居られず、城下町にて踊りに加わりました。家臣たちも源六のように踊りだしたので、金剛城はあまり人がいない状態でした。
この状態を好機と見た玆矩は踊りに混じった部隊とあらかじめ金剛城付近に待機していた部隊に火計を指示。源六は燃え上がった金剛城を見て、落ち延びました。
それ以降の源六の詳細は不明です。こうして、堅牢な城だった金剛城は踊りによって双方犠牲を出さずに攻略されました。
酷評の兵主源六
落城以降、金剛城は周囲で「踊見の城(おろりみのしろ)」と呼ばれましたが、いつの日か訛ったことで「汚登路免城(おどろめじょう)」と呼ばれるようになりました。
また、戦わずに敵前逃亡した源六には、「戦わずに簡単に城を取られて滅ぼされるとは醜態の極みである」と酷評を受けることになりました。