300人もの側室を抱えた豊臣秀吉が親バカぶりを発揮した愛娘・豪姫の正体とは?:2ページ目
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豪姫の夫
八郎(宇喜多秀家)は、10歳で父・宇喜多直家を亡くして家督を継いでおり、幼いながらもお家存続のために奮闘する聡明な子供でした。
そんな姿に心を打たれた豊臣秀吉は、八郎(宇喜多秀家)を実の息子のように可愛がったといいます。
11歳になった八郎(宇喜多直秀)は、現在の岡山県周辺で57万石の大大名となっており、中国地方で猛威を振るった毛利家の監視役を務めるまでに出世。元服を迎えた際には、豊臣秀吉から「秀」の字を与えらて「秀家」と名乗るようになっています。
豊臣秀吉は、そんな実の息子のように愛した宇喜多秀家と愛娘・豪姫を引き合わせて結婚させました。夫婦関係は非常に良好で、3男2女の子宝にも恵まれます。
しかしこの幸せな時間は、豊臣秀吉の死後、宇喜多秀家が後継争いに巻き込まれることによって崩壊していくのですが…。それはまた別の機会に。
関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?
時は戦国時代末期の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに敗れた西軍の副将・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)は、必死に逃亡を図ったもののついに捕まってしまいます。[caption id…
豊臣秀吉にとって自身が愛した2人の結婚は、非常に嬉しかったことでしょう。いざ戦いとなれば冷酷な一面をも見せたようですが、甲冑を脱いでしまえば1人の父親に過ぎなかったのかもしれませんね。
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