「上杉景勝 謀反の意あり」徳川家康の警戒心から始まった会津討幕【どうする家康】
1600(慶長5)年2月10日、上杉景勝(うえすぎかげかつ)は神指城(こうざしじょう・会津若松市神指町)の築城を直江兼続(なおえかねつぐ)に命じました。兼続は、弟の大国実頼(おおくにさねより)を作事奉行に任命すると、3月から大規模な工事を開始。その計画は、神指村など13カ所の村々を強制的に移転させ、新しく城下町を作るということでした。
この計画は直ちに家康の知るところとなり、不穏な動きとして、必要以上に家康を刺激してしまいました。
加えて、景勝の重臣・藤田信吉が寝返りしたことが、さらに景勝の立場を悪くしました。 会津から逃亡した信吉は、3月23日に江戸に到着し、徳川秀忠と面会。景勝に謀反の疑ありと、報告したのでした。景勝謀反の情報に関しては、以前から景勝の後に越後に入部した堀秀治からも寄せられていました。
1598(慶長3)年6月、秀治が越後に入部した際、次の領主に残しておかなければならなかった分の米などは持ち去られ、以後秀治は財政難に苦しむこととなり、問題視されていました。
秀治の家老であった堀直政は、上杉家の不穏な動きを報告し、家康に「景勝謀反の意あり」とします。そのときの根拠となったのが、全国から名のある浪人を召し抱えたこと、人夫約8万人を動員して神指城を築城したこと、弓矢・鉄砲の武具を準備したことの3点でした。
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