「上杉景勝 謀反の意あり」徳川家康の警戒心から始まった会津討幕【どうする家康】:2ページ目
2ページ目: 1 2
その後、家康は何度も景勝に上洛を促しますが、景勝はそれに応じません。1600(慶長5)年4月14日、直江兼続は西笑承兌(さいしょうじょうたい)という禅僧を通して、家康に上洛のできない旨を書状で知らせました。これが「直江状」です。
この文章の内容が、挑発的な文言だったため、家康が会津征伐を決意したといわれています。
ただ、「直江状」は、原本がなく、以前から真贋論争がありました。現在では、後世、良く知った人物による創作なのでは、という説が有力となっています。
一方で、もともと五大老には、在京して秀頼に仕える義務がありました。ところが、景勝がその義務を一方的に放棄。このことから考えると、仮に直江状がなかったとしても、家康が景勝を討伐することは避けられなかったのではないでしょうか。
結局、神指城は、完成せず。現在も幻の城となっています。
面積は鶴ヶ城の約2倍の55ヘクタールだと言われ、完成すれば奥州を代表する巨大城郭となるはずでしたが、現在では完成途中の二の丸の一部と本丸跡をわずかに残すのみです。
神指城跡 アクセス
福島県会津若松市神指町高瀬
バス・・・路線バス「神指黒川」下車、徒歩15分
車・・・磐越自動車道 会津若松ICより約10分
参考:
- 宮本義己 『歴史群像デジタルアーカイブス <関ヶ原合戦>合戦前夜! 豊臣政権崩壊と上杉攻め』2015 学研
- 「神指城跡」会津若松観光ナビ
ページ: 1 2