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徳川家康にとって「城」はどうあるべきだったのか?乱世終息のためのリスクマネジメント思想

徳川家康にとって「城」はどうあるべきだったのか?乱世終息のためのリスクマネジメント思想:2ページ目

反乱も侵略も「城なし」で防ぐ

徳川幕府は、戦国の気風が残る大名たちの力を可能な限り削ぎ落すため、武家諸法度新規の築城無許可での城の修繕などを禁止しています。有名な「諸国ノ居城、修補ヲナスト雖、必ス言上スヘシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事」という条文です。

おそらくこのルールの根底には、前述のような家康のリスクマネジメント思想もあったのでしょう。

この影響から、長きに渡ってお城を持てなかった大名もいました。それは北海道(蝦夷地)の松前氏と五島列島の五島氏です。

どちらも、海の向こうから敵が攻めてくることを考えると城が必要なように見えるのですが、幕末まで築城が許されませんでした。これも、堅固な城を築くことで、反対に外国人が侵略の足掛かりにするのを危惧したのでしょう。

その一方で、西国の大名たちが反乱を起こした際に備えて、きちんとした城を築かせた例もあります。それが赤穂城龍野城で、家康は姫路城に譜代大名を据えて、その西隣に赤穂・龍野城を建てることで万が一の際の防衛ラインにしようとしたふしがあるのです。

こうしたところにも、当時のリーダーたる徳川家康が、「太平の世」を作るために工夫した痕跡が見て取れます。

参考資料
磯田道史『日本史を暴く』中公新書・2022年

 

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