千利休が切腹させられたのはなぜ?政治利用された「茶の湯」と謎の処刑理由:2ページ目
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豊臣秀吉との確執の原因は?
しかし、当の利休は、この頃から茶道に芸術性を求めるようになりました。茶の湯イコール「政策・権力」だった秀吉とは価値観が異なっていき、二人の意見は合わなくなっていきます。
彼らの間を取り持っていた豊臣秀長が天正19(1591)年に病死すると、その関係は一気に悪化。秀吉の側近による讒言や、利休が朝鮮出兵に反対したことも大きく影響したとされています。
そしてついに利休は切腹を命じられました。その理由については諸説あり、寺の門の造りが気に食わなかったとか、茶道における考えが一致しなかったとか、利休が茶器を売って暴利を貪っていたとか、利休の次女を側室にしようとしたのを拒まれたからとか、いろいろ言われています。
しかしいずれも説得力に欠けます。結局最も大きな理由は、千利休が、秀吉と並ぶほどの権力・権威を持つようになったので邪魔になったからではないかと考えられます。
利休の死後、さまざまな事件があって豊臣家から人心が離れていったのはご承知の通りです。もしも利休がのように秀吉に表立って諫言できる存在がいれば、あるいは歴史の流れは変わっていたかも知れません。
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