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「鎌倉殿の13人」尼将軍・政子の伝説が幕開け!第46回放送「将軍になった女」予習

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何とかつないだ源氏の血筋……三寅の鎌倉下向

……二歳ナル若公。祖父公経ノ大納言ガモトニ養ヒケルハ。正月寅月ノ寅ノ歳寅時ウマレテ。誠ニモツネノヲサナキ人ニモ似ヌ子ノ。占ニモ宿曜ニモメデタク叶ヒタリトテ。ソレヲ終ニ六月廿五日ニ。武士ドモムカヘニ上リテ下シ遣サレニケリ。京ヲ出ル時ヨリ下リツクマデ。イササカモイササカモナク声ナクテヤマレニケリトテ。不可思議ノ事カナト云ケリ……

※慈円『愚管抄』第六巻より

【意訳】2歳になる若君。祖父の西園寺公経(さいおんじ きんつね)が養っていたその子は、寅年(建保6・1218年)の寅月(当年は1月)・寅の刻(午前2:00ごろ)に生まれた(だから幼名を三寅とした)。幼くもただ者でないオーラをまとい、占いによれば運勢も上々。それで6月25日に坂東の御家人たちが迎えに来たが、鎌倉への道中、少しも少しも泣くことがなかった。実に不思議なことだと皆が言い合ったそうな。

なお、この三寅がどういう存在かと言うと……。

源頼朝(演:大泉洋)の姉妹である坊門姫(ぼうもんひめ。実朝正室とは別人)が一条能保(いちじょう よしやす)に嫁ぎ、生まれた娘が九条良経(くじょう よしつね。九条兼実の子)に嫁いで生んだ九条道家(みちいえ)が、西園寺掄子(りんし。公経の娘)との間に授かった子です。

一言で言えば「頼朝の甥曾孫」。母方の血筋ながら、源氏嫡流を受け継いでいると解釈できるでしょう(しました)。

かくして鎌倉へ迎えられた三寅。しかしいくらただ者ではないと言っても、さすがに2歳では政治などできませんから、政子が後見することになります。

霽。左大臣〔道家公〕賢息〔二歳。母公經卿女。建保六年正月十六日寅刻誕生〕下向關東。是故前右大將後室禪尼重將軍舊好之故。爲繼其後嗣依申請之。去月三日可有下向之由 宣下……今日午尅。入鎌倉。着于右京權大夫義時朝臣大倉亭……酉刻。有政所始。若君幼稚之間。二品禪尼可聽断理非於簾中云々。

※『吾妻鏡』承久元年(1219年)7月19日条

【意訳】晴れ。九条道家の御賢息・三寅が鎌倉へ到着された。これは政子(故前右大将後室禅尼)が特に源氏の血筋を引く方を求められたためで、6月3日にお許しを頂いたためである。

到着は正午ごろ、義時(右京権大夫)の大倉邸に入られた。午後6:00ごろに政所始の儀式が行われ、三寅ぎみが幼い内は政子(二品禅尼)が代わりに御簾(みす。すだれ)の中から後見されることとなったという。

女性は男性(臣下)と直接対面してはならないため、すだれを垂らした奥で三寅(およびその乳母)と政務に臨みました。

こうした幼君を女性が後見する政治体制を垂簾聴政(すいれんちょうせい)などと言います。

終わりに

かくして第4代鎌倉殿がやってきましたが、これでめでたしめでたしではありません。

霽。酉尅。伊賀太郎左衛門尉光季使者自京都到着。申云。去十三日未刻。誅右馬權頭頼茂朝臣。虜子息下野守頼氏訖。折節若君御下向之間。故止飛脚。于今不啓子細云々。頼茂依背 叡慮。遣官軍於彼在所昭陽舎〔頼茂守護大内間。住此所〕合戰。頼茂并伴類右近將監藤近仲。右兵衛尉源貯。前刑部丞平頼國等。入籠仁壽殿自殺。放火郭内殿舎以下。仁壽殿觀音像。 應神天皇御輿。及大嘗會御即位藏人方往代御裝束靈物等。悉以爲灰燼。朔平門。神祗官。々外記廳。陰陽寮。園韓神等免其災云々。

※『吾妻鏡』承久元年(1219年)7月25日条

京都から伊賀光季の使者が到着しました。

「申し上げます。7月13日に朝廷の内裏で源頼茂(みなもとの よりもち。源頼政の孫)が謀叛を起こし、討ち滅ぼされました。首謀者たちは自害に際して火を放ったため、焼失被害は甚大です」

『吾妻鏡』によると「頼茂依背 叡慮(意:頼茂は叡慮に背くにより=後鳥羽上皇の意に反したので)」討たれたとあります。これは鎌倉殿の座を狙って挙兵したとも、あるいは後鳥羽上皇による親鎌倉派の粛清であるとも諸説あります。

「おのれ北条、このままではすまさぬぞ……!」

幼君を抱え、義時たちに支えられながら「尼将軍」政子の伝説がいよいよ幕を開けるのでした。

※参考文献:

  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡8 承久の乱』吉川弘文館、2010年4月
  • 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
  • 丸山二郎 校訂『愚管抄』岩波文庫、1949年11月
  • 三谷幸喜『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 完結編』NHK出版、2022年10月
 

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